水泡にキス
死は救済ではない、ただの終着である。
吐き気、目眩、日中の強い眠気、ここ数日あまり体調が優れない。過度のストレスに由来するものだという自覚はあるが、それを認めたくない自分がいる。
今日も昼食を吐き、段差に躓き、上司と話している途中で突然電源が落ちたように居眠りしてしまった。ろくでもない。
私は自分の精神状態が露骨に体調は表れる体質なので、側から見ても顔や声で察せられることが多い。けれど、これを心配されたいだけだと思う人もいる。自分のこと以外は他人には伝わらないものだな、と思う。悲しいけれど。
ずうと考えていることがある。二十歳くらいの頃から私の中に棲みついている黒いモヤのことである。
私にとって忌むべきものであり、恐らく、一生出て行くことのない厄介者で、無論仲良くなれそうにもない。こいつは肺や脳まで圧迫するほど大きくなったり、その存在に気付かなくなるほど小さくもなる。このモヤを「穢れ」と呼ぶ作品があったが、表現方法として妙に腑に落ちる呼び名だと感心した記憶がある。
このモヤを消す方法は二つ。
一つは死、一つは満遍ない幸福を手にすること。
前者は暴論に近いかもしれないが、冒頭で述べたように死は終着であり、本人の中でのみ、全てが無になるのだから当たり前と言えば当たり前の話である。
さて、後者について考える。こちらはハードルこそ非常に高いが、「幸福を手にする」という文面だけで目が眩むほどきらきらしていて、大多数の人が求めるという点ではある意味こちらも終着と呼べるだろう。
では、ここで言う幸福とは何か。
苦しみから解放される解脱を幸福と呼ぶ人もいれば、苦しみに打ち勝つことを幸福と呼ぶ人もいる。愛する人と添い遂げることを幸福とする人もいれば、自分のためだけに生きることを幸福とする人もいる。幸福は形を持たず、指数に表すこともできない。
私は満遍ない幸福というのを手に入れることができるのか、できるとして、それはいつになるのか。先が見えない。暗くて長いトンネルの先に見えるのはいつも一本の縄である。違う、私が見たいものはそんなものじゃない。手で闇を掻き分け、道を探る。遠くに目をやる。妻と子のいる食卓、雲のように白い壁、決して肌を刺すことのない柔らかい空気、そうだ、それだ。ドアを開く、灯りのない部屋に縄が垂れている。ここじゃない。ドアを閉める。後ろに先程の食卓が見える。食卓は遠ざかっていく。ここで気付く。ああ、あの食卓は先の未来にあるようで私が通り過ぎてきてしまった過去なのだ。乗り遅れた。遠ざかるな。いかないでくれ。未来であり過去となったあの日々よ、指の間をすり抜ける白い砂のような日々よ。走る。私は追いかける。棘を持つ黒い蔦が足に絡みつく。けれど私は皮膚が裂けようと、あの光に追いつかなくてはならない。目の前をモヤが塞ぐ。穢れきったモヤが立ちはだかる。モヤよ、お前さえいなければ、私は。
ハッとして立ち止まる。もしや私は、私自身に塞ぎ込まれているのではないか。私自身を殺さねば道はないのではないか。ともすれば、終着に辿り着かない程度に自身を殺すことでしか私は幸福になる術はない。しかしそれは果たして本物の"幸福"なのか。
いいんだよ。本当にいいんだな。いいんだ。
ところでお前は先程から誰と話している。お前は誰だ。
私は、お前だよ。
ならば消えてくれないか。お前のために。