バーに立ちます
今書かないといけない気がしたので、電気をつけていない真っ暗な部屋の中でPCに向かって書いています。
清澄白河にあるバーで一日店長をします。初回は11月2日 19時~24時です。
この内容は公開しない方がいいような気もしていたけど公開しよう。
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今自分が感じたことを取りこぼしたくない、残しておきたい。3年ほど前からSNSのnoteで日記を書き始めた。なぜ、手元のノートやアプリではなく、人から見られるSNSで公開しようと思ったのか、それは思い出せない。でもSNSで書くことを選んだことは合っていたと思う。
少しずつ増えたフォローしフォローされる人とイイね。初めはイイねがつくなんて信じられず、この人たちはホントに存在しているのか?読まずに押しているだけだろうと思った。でも、その人達の日記を読む中で、違う環境・境遇だけど似た状況・心の動きを感じて、この人たちは確実に同じ今を生きていると思った。遠くだけど近い、似ていないけど似ている。そんな日常を垣間見ることが、日々傷つきながら、それでも生きていく自分にとって、どれだけ救いになったか。
名前も顔も知らないけど、友達も知らないような内面を知っている人。支えになっているこの人達と今後一生会うことが無いとしたら。美しい思い出のようにして終わらせたくはないと思った。
会うためには理由がいると思った。そのために、日記を本にして売ることにした。2023年12月10日、下北沢のBonus Trackで開催された日記祭という日記を売るフリマイベントに参加した。多くの人が来てくれた。
日常は線、ハレの日は点だと思う。その日は自分にとって重要な点となり、その点から続く線を今生きているという感覚がある。そして、自分という点と、来てくれた人という点の間にも繋がりという線が生まれた。その線に自分は救われているという実感がある。
ふと思う。自分を救ってくれる繋がりが生まれた。でも、生まれたのは自分を中心とした繋がりの集まりであり、他の人同士は繋がっていない。
繋げないといけないと思った。それは他の人を救うことにもなるだろう。そしてそれにまた自分も救われるだろう。他の人を救いたいという純粋に綺麗な気持ちとは言えない。でも、利己があるから利他であれる。それは悪いことでも後ろめたいことでもないと思っている。
場の参加者である時には、自分を中心にした繋がりしか生まれない。でも、自分が場の主催者であるならば、その場では参加者同士の間にも繋がりが生まれる。1点を中心とするよりも遥かに多い繋がりが生まれる。多くの繋がりが、心細く・孤独な日常を生きる支えになると思う。
自分の内面を深く考え・吐露する人には共通する気持ちがあるように思う。"自分はどうなってもいいけど、あの人には幸せになって欲しい"という自信の無さと強さと優しさが混ざり合った祈りの気持ちだ。その倒錯した祈りを持ち寄り合えたならば何かが変わるのではないか。
だから、自分はあのひとでバーを開いてみたいと思う。
「知ってる人同士を繋げたいなら、飲み会でも開けばいいんじゃない?」という声もどこかから聞こえる。確かにそうでもある。でも何かが違う。
闇雲に声をかけるような極端に開かれた状態でもなく、少人数で集まる閉じた状態でもない。強制せず拒むこともせず、その人の意志で集まる。見ず知らずの人がふらっと入って来る。その絶妙に開かれている状態が大事なのだと思う。そのことに意味があると思えるのは、日記を手元に書いている訳でもなく、交換日記として書いてる訳でもなく、インターネットに書いていて、その居心地の良さを知っているからなのかなと思う。
だから、自分はあのひとでバーを開く必要があるのだと思う。
と色々かこつけて考えてみたけど、素直な理由は、お酒・食べ物好きだし流す音楽を考えるのも楽しそうだし一日店長やってみたいな~と元々思っていて、ここでやってみたいな~と思ったからだ。
カウンターの中から見る景色は特別だと聞いた。それを味わってみたい。
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メニューとかはまた書こうと思ってますが、お店に通常メニューであるクラフトビールやクラフトコーラなどの他に、ワインとリキュールとノンアルコールでお茶を出そうかなと思ってます。食べ物は軽いものになるので、食べてから来て頂けると。
何をどれだけ用意すれば良いのかなーと考えていて、もし来てくれる方がいればコメント頂けると助かります。
コメントを見て、この人いるなら来てみようと思って来てくれるのも嬉しいですし。行くってコメントしたけど今日は気分じゃないなーやめておこうも良いですし、その日に気が向いて来てくれても嬉しい。
扉は開いていますので。
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