アンテナラストと京都大作戦と僕と
三人組ロックバンド10-FEETの4年ぶりの新曲"アンテナラスト"。邦ロック系マガジンでは軒並みレビューと対談が載っているのでそれを読んだ上で自分の思いもまとめてみようと思います。初めてのレビューなのでお手柔らかに。
公開されているのは2番Aメロの途中までですが、この尺でも十分”10-FEETの名曲”といった風格。"River"や"2%"のような風格を感じさせます。
アカペラからレゲエ的な裏打ちへ、そして力強いTakuma (Vo. & Gt. ) のボーカルと切なく絡み合うNaoki (Ba. & Ch. ) のコーラスが胸を締め付けるようなサビへ。曲を書き上げるのにかかったこれまでの人生の全ての長い時間軸に沿うように滑らかに繋がっていく。
"VIBES BY VIBES"を聴いた時に感じる、次はどう展開するの?サビ前でテンション上がってきたよ!?サビはどうくる?気持ちいい!というジェットコースター感や差異を強調しながら一つの曲に融合させる僕の中にあるミクスチャーロック像とは違った、調和を目指したミクスチャーロックの形を見せられるようです。
g-freak factory の”Too oLD To KNoW”を聴いたときに感じた感覚にも似ている気がします。個人的事情を歌うか、俯瞰した世界を歌うかという大きな違いはあっても、人生全ての長い時間を経て醸成された価値観を流れるような曲に載せているのが。
”風”や"蜃気楼"、"child"(あまりライブでは聞けませんが個人的にすごい好きです。)といった泣かせるスロー・ミディアムテンポ曲では、歌詞こそ弱さを内包した強さを放つTakumaの真髄ではあるけども、曲はミクスチャー性をそぎ落として聴かせにいってるように思える。(もちろん、だからこそ伝わる歌詞が何度も自分を奮い立たせてくれた大好きな曲ですが。)
一方、今作"アンテナラスト"はその歌詞のメッセージ性(後述します)も深く・優しくて、”歌詞の10-FEET性”とミクスチャーロックという”曲の10-FEET性”が溶け合っているように感じました。
ここまでは雑誌を読みながらの自分なりの楽曲の解釈。
ここからは初めて曲を聴いたときの自分の感想。
この曲をフルで聴いたのは10-FEETを語る上で欠かせない京都大作戦(10-FEET
主催の夏フェス)でした。そこで演奏されたアンテナラストは投げかけられたという表現が近いと感じた。まだ演奏回数も少ないこの楽曲でのライブにおけるノリ方は、受け取り側の曲に対する初期衝動的な気持ちで決まるように感じたから。踊らされると踊るの狭間にいる自分たちだけど、そんなことを考えず、感情を剥き出しにした自己表現がバンドへの最大限の感謝だと僕は信じている。
そんな自分はアンテナラストを聴いて身動きが取れず、鳥肌は止まらなかった。だけど、涙は流れなかった。それはなぜか。
京都大作戦の特別性について音楽ライターの柴那典さんは以下の記事に5点あげている。
多くの若手バンドにとって京都大作戦が憧れの場所になっている
ジャンルを越えたボーダレスなラインナップが実現している
数々の名演が生まれる場所になっている
ここでしか見れないレアなコラボが多数飛び出すということ
10-FEETが、とにかく素晴らしいライブを見せること
この5点はまさにそうだと思うし何の異論もない。
だけど、自分にとっての京都大作戦を考えると、ここにもう一点付け加えなくてはいけない。
それは京都大作戦はこの一年間でどれだけ優しく・強くなれたか振り返る場であるという事だ。
今年は"アンテナラスト"が、去年も別の新曲が披露されたが、他の多くの曲は長く歌われてきた曲だ。それを「京都大作戦の10-FEETのライブは毎年毎年変化がない」と切り捨てる人もいるかもしれないが、それは違うと思う。
アンテナラストのトレーラー映像冒頭、京都大作戦2014ライブ映像で「慣れたないねん」と叫ぶTakuma。
dustboxのSugaさんも言ってるように、自分にとっても、年を経ても鮮やかに目に耳に焼き付いている。
この言葉を聞いたあの時、慣れない為に取るべき方法は常に新しいことをして過去最高を越えていくことしかないだろうと僕は思った。
だけどその時に、10-FEETが演奏するStay Goldに健さん難波さんが乱入した京都大作戦2013年のあの景色が浮かび、新しいことでこれ以上の景色があることに懐疑的だった。だから、Takumaの心の叫びに震える気持ちと、慣れることからは逃れられないだろうという疑いの気持ちが入り混じっていた。
だけど次の年、その疑念は晴れた。同じあの場所で聴く曲は同じ曲でありながら、その歌詞を聴いて頭の中に浮かぶ情景はこの一年間の苦しい事、乗り越えてきたことだった。
そして、初めてライブで涙したのが去年の京都大作戦2015だった。
漫画NARUTOで力をつける程に読めるようになる石碑があるが、それと同じように、今まで分からなかった歌詞が人生経験のビビッドな記憶の情景と結びつき、苦しみがいつの間にか美しい思い出に昇華していたことに気付く。そうして、読めるようになった歌詞が自分にとって特別となる。
僕にとって、京都大作戦で聴く曲はこの一年どう過ごし、成長出来たかの通知表のようだ。
演者が背負う慣れたくない気持ちと自分の慣れたくないという気持ちは全く異質で、大きさも全く違うだろう。だけど、あの日自分に投げかけられ、慣れない為に新しい事を始めて過去最高を更新しないといけない。と感じたことに対する答えは見つかった。
この日に至る道程が毎年この日を特別にしてくれるんだと、慣れることなく過去全てをひっくるめて更新していくんだ。それに過去最高なんて無い。そう去年感じた。
多くのバンドは日常の嫌なこと全部ここに置いてけとこちらを煽る。だけど、10-FEETは違っていて日常の嫌なことがあるから非日常を楽しめる。そしてその向こうへと伝えてくれる。後悔が生まれてくることは一生無くならないだろう。だけど、過去の後悔は解釈で何とでも変えられる。そうして過去を振り返ることで未来に向ける10-FEETの曲が大好きだ。
話しが脱線して順番もぐちゃぐちゃだが、つまり京都大作戦は人生の通信簿のようである。
そして、アンテナラストの歌詞に戻る。
言葉足らずでなければ僕ら届かないことを知らないから
亡くなってしまった祖母の言葉足らずな言葉。その余白に詰め込まれた優しい愛に気付けた時に、その意味が気持ちが伝わってくるんだと思う。
僕は幸せなことにも、物心がついてから今まで身近な人の死に直面していない。
失って気づく気持ちや、失ってからしか気づけない気持ちがあると思う。僕たちは愚かだから。だから、まだ僕にはこの曲を心で理解するピースが足りていない。始めてアンテナラストを聴いた時、鳥肌が止まらなかったが涙が出なかった理由がこれだ。
そのピースが埋まった時、この曲は自分の中で大きな柱になると思う。だけど、まだ分からなくていい。帰省するたびに、少しずつ衰えていく自分の祖父母を思い出してそう思った。
来年はどんな通信簿になるだろう。通信簿と言いつつ、それは多分数値化されないものだと思う。過去を美しいと思うために今を乗り越えて、また来年にこの曲をあの場所で聴きたいと思う。