11月22日 純粋さへの憧れと無理さ

朝、目覚めた瞬間股関節の筋を違えて痛い。違和感を感じたまま通勤。気づくと大丈夫になっていた。

通勤途中、イナダさんの回答を読む。

なので何かを好きになる時は、それを好きな自分が好きになれるかどうかが大事なのではないかと思っています。「どうれ味見してやろうか」だと「うむ、悪くない。しかし自分はこれより良いものをたくさん知っている」という結果にしかならない気がします。

これを好きな自分になれたらいいなあ、という憧れがベースにならないと、好きなものなんてそうそう増えない。逆に言えばそういう憧れの対象がもう世の中に無ければ、それはやはり「上がり」であり「回収期」なのだと思います。

https://mond.how/ja/topics/wqrvlfhxa43x1te/qktmn8ct57j82m4

とても分かる。自分の実感に合うと思った。Lighthouseで一箇所引っかかるところがあった。"周りからのリアクションがイヤで自分が好きな音楽の話を出来ない"という相談に対して、"周りの人はその音楽が好きなのではなく、その音楽を好きな自分が好きなんだ"という回答だった(と記憶している、間違ってるかもですが)。
それが引っかかっていたのは"音楽そのものだけを純粋に"好きになることは出来ない自分への後ろめたさでもあり、一方でそんなのあり得なくない?という反発でもあった。

イナダさんの回答はそのモヤっとしていた部分を肯定してくれているように感じた。それを好きな自分になれたらいいなと憧れを持つこと、それ自体に意味があると思う。現在の自分の中にある、未来に向けた萌芽そのものだと思う。

と、やっぱり自分の考えを守るためだなぁとも思う。

仕事、一体どんなツッコミがあるだろうと怯えていた報告をしたが、全くツッコミがなかった。なんだろうか。少し先に危機があって、その危機を自分しか認識していない状態の方がマズイ気がする。

帰り、一昨日食べれなかったつけ麺を食べた。食べ終わった後のスープ割りの方が美味しく、ラーメンの方がいいんじゃない?と思った。

このまま帰るのはなと思い、ちょっと勉強するためにサイゼリヤに寄った。柔らか青豆の温サラダと白ワイングラスを頼んだ。仕事の本をちょっと読んだ。

帰って、日記祭準備の日記を書いた。noteの検索機能で「下北沢 シクロ」で検索すると、下北沢に行った時の日記が出てくる。この使い方便利だ。自分にとって下北はB&Bとfuzkueと月日がある本の街で、パラレルワールドの自分にとっては音楽の街や、演劇の街だったかもしれない。

日記祭のフリーペーパーどうするか良いアイデアが出ない。机の大きさを考えて、紙のサイズは決めた。そこから文字数はだいたい決まってくる。多くても1000字。
内容をどうするか。紙ごとに別の日の日記を刷るというのも考えたが、その日をどう選ぼうか。

明日も出勤。電車の時間を調べて、目覚ましの時間を変更した。

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