MBTIとルッキズムの流行は同じレーンの上で生産されている
※MBTIやルッキズムを否定したいわけではないです。むしろ若者の欲求として当たり前のものがここに発露されていると思っている。
何者かになりたい欲求
こんな記事を2年前に書いたことがある。
意識高い系大学生は、何者かになりたい欲求によって、さまざまな方向にそれを発露している。という話を面白おかしく書いている。
若者の何者かになりたい欲求が、MBTIの流行を産み、ルッキズムの流行を産んでいる。「専門的"っぽい"定義に自分を分類する」ことで何者かになりたい気持ちが満たされる。権威に定義づけされることで何者かになりたい気持ちが満たされる。
自分のコンプレックスや性格に対して、ある程度の精度で言及してもらうことで、自分を定義づけ、社会の中での立ち位置を獲得するのだ。そうしないと何かを成し遂げる同世代がたくさん見えるSNS社会で、「生きてていい」と思えないのである。
朝井リョウさんの『死にがいを求めて生きているの』という本にも言及がある通り、平成以降の社会は対立が排除された社会である。成績の張り出しがなくなり、かけっこに順位をつけなくなって…
私は、「誰だって間違いじゃない」は「誰だって正解じゃない」ことの裏返しであると思う。それゆえ正解があったほうが生きやすいタイプの人間(日本人はたぶんこちらのほうが多い)はこのような人間の定義づけに傾倒していく。
消費カルチャー
消費カルチャーなんていう不明確な割にインターネットで擦られすぎてる単語を使うのはプライドがちょっと許さないのだが、便宜上この言葉を使う。
彼らからしたらMBTIもルッキズムも(学歴厨や年収で人を測る婚活などもそうなのだが)、人間を消費しやすい形に変えているだけのように思える。性格なんかは、類型ではかれるものではなく特性で測るものだし、ルッキズムに関しては、みんな同じ顔を目指していることが「かわいい」の基準を単純化しようとしているように見える。
これも結局、社会に正解がなくなったことにより、"みんな"で感覚を統一する基準がなくなったことが怖いのだと思う。単純化することで、感覚の統一が生まれ、何かを好きであることで得られる自分の居場所(いわゆる趣味の友達)が得やすくなるのだろう。また、消費しやすくなることで、「消費している自分」としての生きがいも得ることができる。
まとめ
昭和にSNSがあってもこんなに流行らなかったと思う。勝ち負けの基準があいまいゆえに判断力のない子供たち勝ち負けの基準を決めた結果、雑な価値基準に傾倒している子供や若者も見られる。という話。