随筆 ヴェルテルの悩みに共感するか

ゲーテの作品に「若きヴェルテルの悩み」と言う作品がある。
この作品に共感して自殺した若者が多く出たほどで、精神的インフルエンザなどと言われたこともあるそうだ。
寺山修司はさかさま世界史英雄伝の中で「自己中心の愛だ」として「愛は相手との合作であることを忘れてはいないか」と述べている。
確かに寺山修司の言葉に私も同意するところだ。
しかしこの作品が今もなお読まれ、精神的インフルエンザと言われ自殺者が出るほどの共感を読んだのも事実。
エッカーマンのゲーテとの対話の中でゲーテが「『ヴェルテル』が自分のためだけに書かれたと思われるような時期を一生に一度も持たない人があったら、気の毒だと言わなければならない」とこれまたまるで二人がやり合っているかのような言葉が残っている。
寺山修司は若き頃にヴェルテルを読み、ゲーテ嫌いになったと言うのだから、ゲーテ曰くの気の毒な人にあたるのだろう。
しかし気の毒だと断じられようと「私があなただったらまずロッテと寝ることを考える」としている。
人に妻だからと手を出さず、想いを悶々と募らせて挙句に自殺するくらいなら人の妻であろうと抱いて、一夫一妻の枠を破壊し二夫一妻の道さえ模索するだろうと言うのはなかなか私には思い付かない事ではあるが、これまた一理あるように思う。
人間というのは、個であっても集団で生きる物だ。一人で生きていくんだと息巻いても必ず他人の力が不可欠だ。野草や野生動物を喰って生きるサバイバルは元より、自給自足・水道ガス電気と言った物も無しに生きるのは困難を極める。
そこに人の介入がないものとし俺は一人で生きているのだと言うのは高慢である。
恋愛もそうだ。ヴェルテルが愛するロッテのことをどれだけ述べてもそこに見えるのは悉く、自分の話である。
ロッテに触れることもせずに、嫉妬を募らせ自殺を選ぶのは私の意見で言えばなんと勿体無いことであろうか。
そんなに愛するロッテのたった一側面しか知らないまま死ぬなどと、超大作を未完で終わらせるようなものではないか。
今なおヴェルテルの悩みに共感する人々は老若男女問わずいることだろう。タップルやペアーズのような出会い系アプリも多くある今の時勢、顔も知らぬ私のロッテという人もいるかもしれない。
今日のヴェルテルたちは自殺を選んでしまうのだろうか。
寺山修司のさかさま世界史英雄伝はまるで精神的インフルエンザのワクチンだ。ワクチンを接種し、略奪愛が如き熱量を放つのも良いだろう。
ヴェルテルに、寺山修司に共感した上で、私がヴェルテルならば、一体どうしようか!

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