随筆 慎みの精神による恋愛とホラー

恋愛という部分の話がどうも多すぎるような気がして、お前はそればかりなのか! と自罰的な声がするのだが、このまま今日は続行する。
ホラーと恋愛というのは色々と相性が良いという話は聞いたことがあるだろうか。
ホラーを恐怖と置き換えた方が適切かもしれない。
シャクターの情動二要因論やジェームズ=ランゲ説など肉体と精神の関係性の研究は歴史的にもある。最も有名なのはつり橋効果だろう。
しかしながら本日ここに記したいのは恐怖感情と恋愛感情のすり替えといった話ではない。
作品表現の中で恋愛描写と恐怖描写は同等に気を付けると良いのではないか、という部分についての話である。

日本の情緒という物は言葉ではなく、心の内に秘めて態度で示す奥ゆかしさが古き日本の表現であるというようなことを先日記した。
現代日本の恋愛作品やホラー作品は分かり易い言葉や態度、表現がされている。それらを見て違和感を感じたことはないだろうか。
小津安二郎の映画作品など、静かに感情が進んでいくような有り様が退屈だと言われようとも情緒や余韻を感じさせる表現がある。
ホラーもクリーチャーや殺人鬼が実際に襲ってきている時よりも、いつ来るのか? どこから来るのか? と感じている、身構えている瞬間が最も恐ろしいという。
ここには「見えないけど在る」という物が表現されている。
西洋映画などでは、開放的に好きだと伝える。化け物に立ち向かうという様が表現されているが、こういった表現は日本人の気質とは根底にある部分で相容れていないように思う。表現がわざとらしいとも言えるかもしれない。
日本の化け物は妖怪、幽霊、怨霊という物は見えないものである。鬼に関してははんなりを経由して人間・女性が妖怪化するという物もあるが、これはモダンホラーに近しいかもしれない。
要は日本での恐怖とは「目に見えないもの」「対人関係」の二つに分けられる。
目に見えない恐怖とは、人の心の写し鏡とも言えるだろう。
はんなりのような対人関係の恐怖は、不倫や浮気といった点など現代社会でも通じる点だ。
この恐怖が生まれる理由は直接表現をしないから、察する。想像する。妄想する。という要素が発生し、墓場に何かいるかもしれない。明かりが見えた人魂だ! というような想像力。
潜めた感情から嫉妬や欲望、邪推、憶測が生まれてきた為に。あるいは思い詰めてしまったがために生まれた物なのではないだろうか?
と思うとジャパニーズホラーの金字塔「リング」「呪怨」も恨み、憎悪、リングゼロを含めれば愛憎の物語が描かれる。
以心伝心。言わずとも通じ合うという心と、結局言わなきゃわからない、だからすれ違う。あるいはそこに付け込んだ身勝手。というのが恋愛と恐怖に横たわる日本の情念なのではないだろうか。
我々が慎みの精神の文化で育ったように、木陰から、草葉の陰から我々を見ているもの達も多種多様な慎みの想念を抱えているのではないか。


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