ユーラシア東部のアシューリアン
ユーラシア東部の既知のアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)石器群について整理するとともに新たなアシューリアン石器群を報告した研究(Li et al., 2024)が公表されました。本論文は、おもに中華人民共和国が現在実効支配する地域を対象に、握斧を中心としたアシューリアンの拡散の研究史を整理し、握斧技術の拡散が人口集団の拡散と分布の指標になる可能性を指摘しており、私にとってはたいへん有益でした。伝統的な「モヴィウス線(Movius Line)」によると、アシューリアンはユーラシア東部には拡散しなかった、とされますが、現在ではユーラシア東部においてアシューリアン石器群が確認されています。また本論文は、現在の行政区分では四川省カンゼ・チベット族自治州稲城(Daocheng)県にある皮洛(Piluo)遺跡で発見された10万年以上前のアシューリアン石器群を報告しており、チベット高原では種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の10万年以上前の存在が確認されているので(関連記事)、デニソワ人の所産の可能性がある点でも注目されます。
●研究史
握斧はアシューリアン技術複合体の「道具型標本」とみなされることが多く、それは、握斧がひじょうに一般的な人工遺物であるからだけではなく、豊富な技術と行動と認知のデータを含んでおり、そうしたデータがヒトの進化と石器製作戦略における傾向を浮き彫りにするのに用いられてきたからです。そのため握斧は、他のアシューリアンの大型成形道具(たとえば、鉈状石器)と比較すると、一貫した形態的特徴、とくに形態の対称的概念の出現を有する最古級の道具であり、その製作は石器技術の進化における重要な画期的出来事と広くみなされており、道具を製作する人類の複雑な思考と認知の能力における向上が示唆されます。現在の考古学的データによると、握斧は176万年前頃に出現し【最近の研究(関連記事)では、握斧の出現は195万年前頃までさかのぼる、示されています】、30万~15万年前頃にじょじょに消滅し、一部の地域では後期更新世まで存続しました。さらに、道具型としての握斧はさまざまな地域で見られ、アフリカとユーラシアの大半の地域が網羅されるので、握斧の発見と詳細な研究は、伝統的なヒトの移動および拡散と物質文化の伝播に関する理解について重要なデータを提供します。
しかし、【現在の中華人民共和国の実効支配領域としての】中国における握斧の存在はかつて激しく議論された問題で、そうした議論は、元々1940年代にハーヴァード大学の人類学者であるハーラム・モヴィウス(Hallam Movius)によって提案された仮説に由来しました。この仮説は、「旧世界」を、インド亜大陸の北西部から南東部の「線」に沿った東西の地域に分割するよう提案しました。その仮説は、この線のどちらかの側に暮らす同時代の初期ヒト集団重要な技術的および認知的差異を主張し、その線の東側のアジア東部および南東部の集団は、単純な両刃の粗製石器の存続と組み合わされた、握斧とアシューリアン技術が欠如した未発達な文化によって特徴づけられ、対照的に、この線の西側の地域には、多数の握斧遺跡が含まれるので、より発展した技術を反映していました。そうした線は後に「モヴィウス線」と正式に命名され、当時は、既存の考古学的記録と、旧世界全域で知られていたことを適切に反映しており、線の両側の地域での限定的な研究を考えると、歴史的に偏っていました。しかし、この線の影響は数十年にわたって広く伝わり、【現在の】中国に握斧があったりかどうか、旧世界の東西間で初期のヒトの技術と認知に発達および文化の違いがじっさいにあったのかどうかに関して、広範な議論の契機となりました。
1940年代後半における中華人民共和国の成立後に、学問分野としての考古学は大きく発展しました。1950年代には、山西省で丁村(Dingcun)旧石器時代遺跡群が発見されて発掘され、中国、およびアジア東部で握斧とアシューリアン技術を有する最初の地域となりました。1970年代以降、広西チワン族自治区の百色盆地(Baise Basin)や湖南省の麗水(Lishui River)流域や安徽省の水陽江(Shuiyangjiang River)流域や湖北省と河南省の丹江口貯水庫地域(Danjiangkou Reservoir Region、略してDRR)や陝西省の洛南盆地(Luonan Basin)からの一連の発見によって、中国における握斧の存在が確証されただけではなく、この重要な種類の石器の時空間的範囲が大きく拡大しました(図1)。これらの発見でも、中国の握斧は形成戦略と形態的特徴の観点で均一性と多様性両方を反映している、と確証されました。今や、世界中の研究者が、握斧が中国に存在し、「モヴィウス線」が、もはや現在の考古学的データセットでは支持されない、地域的な技術の発展と進歩についての時代遅れの思考法を表している、と受け入れている段階にあります。これらの発見以降、今や広範な新しい科学的問題を調べることができるようになっています。以下では、中国の旧石器時代研究で議論されている最も関連する問題が要約されます。以下は本論文の図1です。
<div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2095927324002962-gr1_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2095927324002962-gr1_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="307" class="up-image" title="図1" /></a></div>
●中国の握斧の年代と製作者
最古級の握斧は、中国南部の広西チワン族自治区の百色盆地に由来します。握斧と直接的に関連するテクタイト(隕石衝突によりできたガラス状物質)のアルゴン・アルゴン(⁴⁰Ar/³⁹Ar)年代測定によると、テクタイトは80万年前頃に形成され、握斧の推定年代を提供し、これは前期更新世と中期更新世の間の移行期に位置づけられます。百色盆地に存在する好適なテクタイト年代測定の条件は、中国全域の他の握斧出土地域では稀なので、年代の解決を試みるさいには、多くの遺跡が長年にわたって問題に直面してきました。当然のことながら、これは堅牢な遺跡間の比較の実行と、経時的な石器製作における複雑な傾向の調査の能力を制約します。年代測定の難しさは、おもに根底にある堆積学的問題に起因し、とくに中国南部では、赤土の強い酸性のため年代測定の標本抽出の試みが失敗してきました。結果として、ほとんどの中国南部の握斧遺跡の年代は、層序的指標の使用か、河川段丘系列内の遺跡の位置に基づいて推定されているので、これらの遺跡の年代結果はさほど信頼できず、さらなる検証と年代測定の試みが必要です。
対照的に、中国の南北間の移行地帯に位置する秦嶺山脈(Qinling Mountains)地域では、最近の一連の光刺激ルミネッセンス発光(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)の年代測定結果から、秦嶺山脈の握斧は中期更新世後半の25万年前頃に見られ、たいへん遅くになって消滅した、と示されています。たとえば、DRRと洛南盆地の握斧は10万~5万年前頃に消滅し、陝西省藍田(Lantian)県地域の握斧は5万~3万年前頃まで存続しました。したがって、秦嶺山脈地域の握斧は現時点において、世界で最も新しい記録の一部です。
中国における握斧製作者に関して、上述の年代の問題から、まだ一部の議論があります。百色盆地については、握斧は80万年前頃にこの地域に暮らしていたホモ・エレクトス(Homo erectus)によって製作された可能性が高そうです。同様に、湖北省の学堂梁子(Xuetangliangzi)遺跡で発見されたDRRのホモ・エレクトスに分類される頭蓋化石は、どの種が握斧を製作したのかに関して、さらなる証拠を提供しますが、この主張に関して、握斧と化石との間の不明な層序関係を考えて、依然として一部の論争があります。少なくとも中期更新世後半以降には、握斧の製作者が中国における古代型人類の重要な構成員だった、と確証を持つことができますが、ヒト化石の現在の不足を考えると、これらの人々が誰だったのか、正確な分類群の指定は不明なままです。しかし、中国の握斧を製作した人口集団が、握斧を使用しなかったかもしれないデニソワ人(関連記事)など他の同時代の古代型のヒトと並行して進化したかもしれない可能性は高そうで、この推測はこの重要な期間における中国のヒト化石記録に示された複雑で多様な形態的特徴と補完的です。
●中国の握斧技術の空間分布と拡散パターン
握斧出土遺跡は今や、中国の考古学者による数十年間の現地調査と発掘によって地域全体に広く分布しており、現時点の年代測定結果に基づくと、中国南部、とくに嶺南地域(Lingnan Region)における握斧の出現は、秦嶺山脈周辺の中国北部に先行し、握斧技術の南方から北方への拡散が示唆されます。具体的には、握斧技術は広西チワン族自治区の百色盆地と広東省の南江(Nanjiang River)流域で最初に出現し、両者とも嶺南地域に位置しています。その後、握斧技術は長江の中流域および下流域へと北方に拡大し、これには麗水や江西省の潦河(Liaohe)や水陽江の流域が含まれます。この拡散に続いて、握斧技術はDRR内の秦嶺山脈の南部にも50万年前頃に到達し、これは双数(Shuangshu)遺跡の年代測定結果に基づいています(図2にはさまざまな地域の握斧の事例が示されています)。以下は本論文の図2です。
<div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2095927324002962-gr2_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2095927324002962-gr2_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="312" class="up-image" title="図2" /></a></div>
25万年前頃以降、握斧技術が秦嶺山脈周辺地域で一般的になり、この地域やそれ以外で遺跡が急増しました。この筋書きはこの段階における握斧製作者の人口の顕著な増加と関連していた可能性が高そうです。北方では、山西省の份河(Fenhe River)の握斧技術は襄汾(Xiangfen)盆地(つまり、丁村遺跡群)に到達し、東方では、河南省の温泉(Wenquan)遺跡と長江下流域に到達し、たとえば安徽省の巣湖(Chaohu)地域における大型の剥片に基づく石器群の発見、西方では、長江およびその支流に沿って、涪江(Fujiang River)流域や四川盆地やチベット高原東端にさえ至り(図1c)、握斧技術の西方への拡大および長江沿いの東西の拡散の確たる証拠を提供します。さらに、握斧使用人口集団は長江の発達した水系の使用を好み、移動と拡散を容易にしたかもしれない、と合理的に推測できます。
チベット高原東部の四川省カンゼ・チベット族自治州甘孜(Ganzi)県稲城(Daocheng)郡に位置する皮洛(Piluo)遺跡は、標高約3700mというその地理的位置(図1c)と年代を考えると、独特な事例です。皮洛遺跡はチベット高原における旧石器時代遺跡の現地調査中の2020年に発見され、地表で数十点の握斧が収集されると、研究者はすぐに複数の段階で検証と正式な発掘を行ないました。予備的なOSL年代測定結果によると、皮洛遺跡の握斧は13万年以上前で、結果として、今では世界で最も高い標高のアシューリアン技術製作物です。形態的には、皮洛遺跡の握斧の一部は「古典的」な涙滴型と薄い断面形状を保持しており、これはヨーロッパの中期更新世の握斧と一般的には関連しており、アジア東部でこれまでに見つかった最も巧みな握斧打撃の一部を反映しています。そうした技術的特徴は、皮洛遺跡における握斧の相対的に新しい年代と一致します。
現時点のデータセットに基づくと、中国において最古級の握斧技術は80万年前頃に出現し、DRRおよび洛南盆地の握斧出土遺跡の高密度によって例証されるように、その後で秦嶺山脈地域周辺を中心に25万年前頃には継続的な発展と順調な拡散が続いた、と考えられます。人口増加に伴って、握斧技術は中心地域から横方向に拡大し始め、百色盆地から長江中流域および下流域への中期更新世初期の拡散に続いて、拡散の別の波を形成しました。人口集団がチベット高原を探索しそこに適応したことも考えると、チベット高原にこの段階における握斧技術の拡大はより広範でした。ここでは、中国における握斧製作人口集団の進化について、「握斧技術の中期更新世後期拡散モデル」が提案されます。
●中国の握斧技術の世界的重要性
エチオピア南部のコンソ(Konso)やケニアのコキセレイ(Kokiselei)などの遺跡から得られた証拠では、握斧技術はアフリカ東部において、アフリカにおけるホモ・エレクトスの出現と同時代の170万年前頃に初めて出現した【上述のように、最近の研究では握斧は195万年前頃までさかのぼる、と指摘されています】、と示されており、これら二つの事象【握斧の出現とホモ・エレクトスの出現】の間の関係の可能性を示唆しています。150万年前頃に、握斧技術を有する人類が初めてアフリカを離れ、ユーラシアへと拡大しました。この最初期の拡大の範囲はひじょうに限定的で、それは、類似した技術的および形態的特徴のある握斧出土遺跡が、140万年前頃となるイスラエルのウベイディヤ(Ubeidiya)や150万年前頃となるインドのアッティラムパッカム(Attirampakkam)など、この期間にはわずかしか発見されていないからです。イスラエルの80万年前頃となるGBY(Gesher Benot Ya’aqov、ゲシャー・ベノット・ヤーコブ)遺跡は、この後期の拡散の重要な指標とみなされることが多く、後期の拡散は全体的には、アフリカを越えた最初の移住よりずっと広範囲で、その後に世界中の握斧技術の分布に顕著な影響を及ぼしました。
ユーラシアへと進入したヒト集団は2方向へと拡散し、一方は東方のインド半島とアジア南東部とアジア東部へ、もう一方は西方のヨーロッパです。現時点で、イタリアのノタルチリコ(Notarchirico)やフランスのラ・ノワール(La Noira)など、ヨーロッパでは70万年前頃のいくつかの握斧出土遺跡が、この移住を示唆しています(図1a)。80万年前頃となる百色盆地の握斧から、ユーラシアの東端に位置する中国もこの拡散事象の重要な一部を形成した、と論証され、握斧技術の分布をかなり拡大し、握斧製作人口集団の大陸間拡散および交換パターンの理解を深める、重要な証拠を提供します(図1a・b)。握斧技術は拡散後に、ユーラシアのさまざまな地域で異なる軌跡に沿って進化史、その消滅もさまざまな時期のことでした。後期更新世となる10万~5万年前頃までの中国における握斧技術の存続を考えると、中国の遺跡は現時点で、世界中の既知の技術の最新の出現を表しています。
中国における握斧技術の理解によって、道具の機能性や、過去の人口集団が変化する環境条件にどのように適応したのかについての調査が可能となります。中国の現時点の握斧遺跡群の生態学的環境は多様で、嶺南地域(たとえば、百色盆地)や長江の中流および下流域の亜熱帯条件から、洛南盆地や中国北部の黄河流域の丁村遺跡の温帯条件にまでわたります。今や、四川省の高地遺跡群の最近の発見に続いて、握斧製作人口集団の生息環境は、チベット高原の慣例で低酸素の地域を含むまで拡大します。まとめると、この広範な生態学的分布は、技術の握斧遺跡群の生態学的環境は、中国全域の握斧製作人口集団の高い行動可塑性と柔軟な環境適応性を実証します。機能的には、熱帯/亜熱帯林からの握斧の報告が(世界規模では)稀であることを考えると、中国の最南端部の嶺南地域から発見された握斧は、豊富な植物資源を得るための、大型の伐採/掘削道具として使用された可能性が高そうなので、局所的な人口集団の独特な地域的環境適応として示されます。
本論文は現時点の考古学的データセットに基づいて、中国の握斧技術の進化についていくつかの考えと意見を提示します。本論文は第一に、中国の握斧技術は初期のヒトの大陸間の移住と関連している可能性が高く、遺跡の規模増加や握斧製作人口集団が曝された環境および生態学的変数を考えると、この技術はその後でこの地域に独特な軌跡をたどった、と提案します。握斧技術の変異性の真の程度や、さまざまな地域で握斧のじっさいの機能がどうだったかについて、は依然として限定的な知識しかなく、これらの問題は将来より詳しく研究されるべきです。本論文は第二に、「握斧技術の中期更新世後期拡散モデル」を提案し、これは、秦嶺山脈地域における握斧技術の急増と、その後のこの中核地域から他地域への拡散を主張します。しかし本論文は、現時点の年代測定の難しさを考えると、これが重大な欠点と認識していますが、それでも、これが優先されるべき問題の一つであることを強調します。将来の研究は、中国さまざまな地域のより多くの握斧が出土している高解像度の年代測定作業に焦点を当てるべきで、これは時間の経過とともに必然的に、本論文で提案された拡散モデルの堅牢性を検証することになるでしょう。
最後に、初期のヒト化石の証拠は少ないものの、握斧技術自体は、中国の握斧製作人口集団がアシューリアン技術のない同時代の人口集団と異なっている、と論証している可能性が高そうで、これは、中期更新世後期以降に中国に生息していた人類のかなりの多様性を示唆しているかもしれません。将来、さまざまな人口集団によって占められている生態学的地位の調査や、その生計戦略が、集団間の行動の違いと類似性の理解への洞察を提供するでしょう。さらに、堆積物のDNA研究が好適な保存状態と状況の握斧遺跡で実行されるべきで、そうした研究は中国における握斧製作人口集団の分類学的地位を特定する、重要な証拠を提供するかもしれません。
参考文献:
Li H. et al.(2024): The temporal-spatial evolution of handaxe technology in China: Recent progress and future directions. Science Bulletin, 69, 14, 2161-2165.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.04.047