お酒っておいしいんですか?
このあいだ、大学生の会員が二十歳になったから堂々とお酒が飲めるようになったと言うので、赤ワインの試飲を勧めた。ちょこっと味見をした程度である。
第一声が にがい であった。赤ワインがにがい? しぶい ならわかるような気もするが、、、。
お酒っておいしいんですか?
そう問われると酒好きの私は戸惑いを覚えた。そもそもこのワインはうまいとか、このビールはまずいとか感じることはあるが、酒がうまいと感じたことはない。
つまり、酒の類いを飲むようになった後に、うまい酒まずい酒が発生してくるのであり、酒を飲むという習慣を持たなければおいしいもまずいもないということだ。
しかし毎晩のようにワイン等の酒を飲む私はおいしいから飲んでいる、、、、と思い込んでいる。ほんとだろうか?本当にこのワインをおいしいという理由でそれを飲んでいるのかと問われると口籠ってしまう。
おいしいまずいというものは事後的なものなのだから、わたしの場合、本当のところは、飲酒が習慣化しているからワインを飲むのであって、おいしいからではないと答えざるを得ない。不満は残るが、、、。
しかもおいしいと感じたその同じ酒が次の日はそーでもないこともしばしばである。この酒は昨日飲んだものと同じ酒だという揺るぎない認識はあるのだが、どーも昨日のようなおいしさを感じない、もー飽きた、などなど。
いい加減なものである。
唐突に思い出したのだが、マサイ族に脳梗塞を患う者はいないらしい。なぜなら塩を使わないから。調理味付けを覚える以前の人類に脳梗塞は発生しなかったのだろう。調理味付けは消化を助けて栄養摂取を豊かにしたのだろうが、例えば生肉しか食べたことがない者が、いきなり焼いた肉を食べて焼肉のほうがよりおいしいと思うものなのだろうか?
栄養摂取が先か、おいしさの追求が先か、これを問うことは不毛かも知れない。ちなみに最近ではマサイ族も塩を使い始めているらしい。そっちの方がおいしいからという理由が彼らにもあるらしいのだが、そのおいしさとはどのようなものか、なぜおいしいのか、尋ねてみたい。食べればわかるよ!といった答えが返ってきそうな気がする。
同じように、絵を観ることに関心があり、それが習慣化すればその絵の好き嫌い良し悪しが自然発生するのであって、初めて絵を観る人が、絵って美しいんですか?と問うことは自然なことだろう。わたしにもそんな時期があったはずだ。その時分のわたしは、ただ絵を見て直接感じているだけで、美しいも醜いもなかったように思える。
このように問われることは、美しさとはなにか、おいしさとはなにか、を明らかにすることを促されているようなものではないのか。
美学者ならこれに答えることができるだろうが、その答えに対して、なぜ人はそのようなことを感じるのかと問われれば、さすがの美学者も答えられないだろう。
いや、そもそもそのような問いがなぜ発せられるようになったのか、そのような問いに誰でもが納得するような答えが求められるような時代を、なぜ我々は作ってしまったのか、そのことの答えが、前述の問いに答えることになるのかも知れない。
もしそうであるなら、それを問うた者はそのような答えを知ることで、好き嫌いとは無関係に、その時代の精神的な運動に否応なく参加していることになるのではないだろうか。
これって民主主義?