“恕”で始まる 新たな年によせて...
...さて。とまれ 令和の御代も三年目。
相も変わらずのご贔屓様を... って、こうしてwebの海に流してみても、無人島から空き瓶に手紙を詰めて流しているようなものなのでしょうけれどもねぇ。さはさりながら そはそれとしての興趣として、だな。
この 令和三年。
2021年。でも良いんですよ。はっきり云って何でも良い。ただ、こうして何かを書き記してみるにあたっての 一つの区切りとしてみれば。これが あれこれの説明も無しに進められると云う意味で、使いやすいから使っているだけでもあって。実際は このあたしのささやかなの人生の“流れ”の一部分を指しているだけという感覚で ...まぁいいや。
とまれ これからの一年。きっと善い年になるな、と云う予感がありましてね。
根拠も何もないけれど、 そぉいう“流れ”を感じております。
もちろん 良いことも悪いことも 糾う縄の如く。ままならぬこと 想い通りにならぬことのはびこるこの浮き世。なにはともあれ『あわてず さわがず うかれず おごらず いからず くさらず もとめず かざらず いそがず あせらず ひるまず たゆまず』の毎日ではありますけれどもね。
...って 何故今更の更新かと云えば... と云うお話
実は先の暮れの『良いお年をお迎ぃくださいますやぅ』のご挨拶の頃。
『今年は、去年までに増して 本当にしょうも無かった…』
なんて一言に、あたしゃ何の考えも無しに『ぃゃ お陰様であたしはこの一年楽しくやらしていただけまして。本当にありがとうございました...』なんて微笑んでお返ししておりまして、その時の辺りの反応に、想いを改めた次第。
そういえば、いつからでしょうかねぇ。『訳知り顔してぇるけれっどもが こいつはホンマもんの馬鹿』『何に付け 一言をさし挟まずにいられない一言居士さん』『ただのご苦労無しのルサンチマン』等等の半径30mのあれやこれやから、国政もさにあって、国際情勢もさにありましてね。
それは 多分に昨年のいつころからだろうか。
『まぁ、良いンじゃね』って、鼻から一つ息を抜いて己がなすべきことに思いをいたすことができるようにね...
多分に、今回のコロナ禍のどたばた がたぴしも相まってんでしょうね。
そうした大概のことに『は? ...ン~ まぁ 良いんじゃぁねぇの』って思えるようになっている“小狡い”自分に気付いた刻の、このおもしろさったら無かったね。
これね。もっと格好良く申さば“恕”と云う一言かなとは思います。良くある『ご寛恕ください』の“恕”の字ですね。
でもきっと、そんな格式じゃぁない。あたしはもっともっと遙かに俗な領域で『まぁ 良いンじゃね』って、吐息とともに無駄な苛立ちや怒り。もしかしたら 蔑みや哀れみのたぐいまでをもの感情を大気中に解放しているのかもしれません。
でも、決してそれが悪いことだとは思えないんですよ。
そこで『まぁ 良いンじゃね』って、倫理的にも 道徳的にも 規範的にもね。もぉ呆れる程にガバガバな『まぁ 良いンじゃね』って ブローオフバルブを働かせることのできるおかげで、過度に傾きがちな感情の天秤棒を、よりお平らかな方向に持って行けるようになるじゃぁありませんか。
かの文豪 団鬼六先生は、ことあるごとに『アホか』って仰っていたそうです。
それと あたしが『まぁ 良いンじゃね』と、鼻から一つ吐き捨てていることを同列に扱ったら、草葉の陰から なんか飛んでくるかもしれませんけれどもねぇ...
まぁまぁ、大晦日の昨夜より酒浸りのキーボードの勢いで...