コンテクストにケアを込めるという技術
昔、私が糖尿病チームの現場を直接仕切っていた10年くらい前、こだわって続けていた糖尿病ピアサポートのプログラムがあった。
糖尿病を語る会という名前で、糖尿病教育入院の中のプログラムの1つだった。
大学病院に勤務していた時に知り合った男性に協力をいただき、彼の語りをきっかけにして、自分達のストーリーを断片的にでも語っていくという内容だ。
日本人なので最初はざっくりしたモデルとファシリが必要と考えて、そのような形になったが、特にそこにこだわりはなかった。
初期の頃は、彼がガンで奥様を亡くされた時の話から、少しずつ自分の人生を見つけていく時の話まで、多くの参加者の共感を得た。
時に涙しながら自分の病気という体験を語っていくプログラムはプログラムを組んだ側としては意図に沿うものだった。
しかし、ある時から彼の語りが変わってきたのだ。
なんと表現したらいいのか、少し説教臭くなったというか、矜持的になったというか。なにかメッセージを込めるようになったのだ。
ここらへんはファシリテーターである私の責任が多々あるのだが、当時は違和感こそ感じていたが、何が問題なのかがわからなかったのだ。
ピアサポートにおける語りで重要なのは、語っているストーリー自体より、行間に込められたコンテンクスト、つまり言葉を超えたコミュニケーションだと考えている。
だから、今は特定の人をモデルとして立てることはやめている。彼らは、自分の役割を空気を読みながら探し、そしていつのまにかそれらが中心になってしまうからだ。
こうした現象は我々専門職にもある。逆に説教くさくても、実は言葉を超えたコンテクストを込めてケアしていることもあることにも気づく。
そんなことが意図的にできたらというイメージだけはあるが道半ばだ。
まだまだ修行は足りないと反省する毎日。