助産師の歴史と社会的意義から伴走型支援を学ぶ。
今週は韓国から視察がくるなど、イベントが目白押しでしたが、最も感銘を受けたのは木曜日、助産師会のレジェンド小田切さんの話を伺ったことだ。以下、小田切さんの話を要約する。
助産師は産婆にルーツを持つ職業で現在は国家資格になっている。地域で子供を産み育てる為に生まれた職業で、江戸時代から続いている。
明治元年に法律で禁止されるまで、江戸時代には堕胎や流産を促す為に薬剤を使うなど、現在の医療職とは比べ物にならないほど出産と社会関係との間で翻弄されながらも、地域に暮らし、出産だけでなく、生涯女性の暮らしに伴走し続けてきた。
江戸時代の産婆の社会的地位を知る手がかりとして「大名行列の前を通れるのは産婆だけ」という言葉が残されているそうだ。
明治七年 医制が布かれるに伴い、その中に吸収される形で国家資格としての位置付けがなされた。
産婆には開業権があり、事故が起きれば全て自らの責任になる為、自らの観察や判断に対して、看護師よりも重い責任を背負っている、というのが助産師の共通した認識と話す。また、助産師会という組織の成り立ちにも特徴がある。まず市町村の組合から始まり、都道府県、そして最後に全国組織になったという経緯がある。つまり、歴史的に現場が強い性格を有するという意味と理解した。
こうした責任に対する認識や協会設立の歴史は、看護協会と助産師会の組織における相違を産むことになる。それは、助産師は自らの判断や観察、そして信念を重んじる為、協会からの指示に素直に従わない気質があるという。一方で、看護協会は中央集権的に組織がまとまっており、組織による大きな動きができると話す。
助産師はしばしば産婦人科医師との紛争を経験してきた。小田切さんは、この対立を説明するのにGHQからの指導の存在は欠くことはできないと話す。
ちなみに、米国では国家資格を持つ助産師という職業はなかった。伝統的な無資格の助産師のような役割を持つ者はいたが、GHQは助産師と聞いて、おそらくそれをイメージして、信頼できないと考えたのだろうと小田切さんは話していた。
GHQは欧州や米国でなされていたような「科学的根拠」や「管理」という「医学モデル」の考えに基づく医療を推し進めてきた。例えば、陣痛促進剤や会陰切開などを積極的に使用し、予定日までに計画的な出産を行うことを重視した。
一方、助産師は「母体の産む力を信じて、それを支援するのが助産師の役割」という考えを基本としている。それを象徴する言葉として、「供に産みあげる」「お産を仕上げる」という言葉が助産師の間にはあるそうだ。
かつて、開業助産所は学校区に2カ所くらい存在していて、助産師も地元で暮らし、普段は一人の住民として、地域に多様なネットワークを形成していた。つまり、助産師は子供を授かってからの関係ではなく、それ以前から、母親の暮らしや生活に伴走し、熟知していた。その妊婦の母親や父親を取り上げたのも同じ助産師であることもしばしばだったという。
陣痛が始まると、その意味ついて妊婦に話すという。「陣痛とは一頻りの痛みという意味で、ずっと続くのではないのよ」「大丈夫よ」と繰り返し状況を言語化したり、この先の見通しや、それらの意味について話しかけるという。呼吸法を教え、「上手よ、大丈夫よ」と励ます。小田切さんは、これらを「いきつもどりつ」の関係と表現していた。
「健康」「安全」だけでなく、「生活」の枠組みでお産を取り扱っていることを象徴するのが、出産後の対応だ。出産後、疲弊した母親を休ませる為に、子供を別室に移すのが医学的な方法だ。しかし、助産師は一頻り母親を休ませると、母と子の関係性におけるコーディネートを始める。子供を抱かせ、まだ授乳をするのに十分な状態ではない乳首を子供に含ませる。マッサージの仕方や母乳の上げ方の指導が早期から行われる。こうした行為は単に母親業の修行というだけでなく、母と子の愛着関係を形成する支援だと説明した。
退院までには一通りの技術移転や関係性のコーディネートを行い、文字通り一人の女性を母親に変えていく作業だ。
退院後も助産師は母親の自宅まで訪問する。「沐浴を手伝ってあげるわ」を切り口に、その後のケアはきちんと行われているか、疲弊してはいないか、家族との関係は良好かなど、あらゆる観察を行う。
「もし虐待があった時は、助産師は自分のことのように悲しむ」と話していたが、これは助産師が単なる支援者や専門家だけでなく、自らも当事者になっていることを意味しているのではないだろうか。昔から助産師は「家族ではないけど、他人ではない」とう社会的評価がなされていることも、このことを支持しているように思える。
助産師が関わるのは産後1年間と言われているが、子供が育った後も、夫婦喧嘩の仲裁や嫁姑の関係の調整を行ったりするという。子供が成長したり、思春期に差し掛かった時も積極的に関わっていくという。
個人に伴走しているからこそ、客観的な根拠をもとにする医師とは対照的に、生活モデル的な個別的な根拠を重視するのが助産師だと理解できた。故に、「助産師は医師と良い意味で喧嘩できないといけない」という教えがあるそうだが、これらは助産師が医師を生活モデル的支援の中に道具的に取り込んでいくプロセスと理解した。これらは我々がイメージしているSocial-care workerの姿と生活モデル的支援と医学モデル的支援との関係性そのものだ。もちろん、助産師は医学を使う。しかし、それはあくまでも道具的、あるいは手段的に用いるのであって、あくまでも助産師は個別的でエコシステム的、包括的な状況把握のアプローチを行うように見えた。
院内助産院が創設されたという点も、産婦人科医療が医学モデルから生活モデルにひっぱられていることを象徴する出来事と考えることもできるのではないか。実際に、小田切さんは、産婦人科医との紛争の中で、管理分娩が引き起こす新たな問題や、自然分娩に対する医師の理解が進んでいると話していた。
以上、簡単に小田切さんの話をまとめた。もちろん、現在、開業助産院は学校区に数カ所もない。当時は助産師の社会的な働きかけの主な対象は行政だったと話していた。また、助産師の人数が多く、助産師だけのネットワークでセーフティネットの一部を担えてしまったのだろう。もちろん、現在はそれだけのネットワークはない。小田切さんは、もう一度、助産師を増やすという考えを持っていると話していたが、おそらくそれは現実的ではないだろう。
助産師の社会的意義は専門職の立場だけで説明することはできないだろう。ひとりの住民として、共感で母と子、さらにその家族と繋がり、伴走し続けてきた歴史は、我々に、多様な担い手であって、再びセーフティーネットを貼り直すことができる可能性を示してくれた。小田切さん、本当にありがとうございました。来年のケアカフェではぜひ助産師の歴史や社会的意義から伴走型支援を学ぶという企画をさせていただきたいと考えております。引き続き、よろしくお願い申し上げます。