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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」 三宅香帆
「自分から遠く離れた文脈に触れること ━ それが読書なのである。」
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」三宅香帆
確かに働いていると、自由に使える時間が少ないと感じます。
仕事から家に帰ってきて食事をして、お風呂に入って、そうこうしている内に壁に掛かっている時計を見上げると「えっ!もうこんな時間!?」ってなります。
とくにこの1年は仕事が忙しかったので、本を読む時間が極端に少なくなりました。
それでも10分だけでいいからと、寝る前の少しの時間本を読みました。
そうすることで不安の緩和を図り、気分を落ち着かせました。
「明日仕事がなかったら、もっと本が読めるのに!!!」
何度そう思ったことでしょう。
この本の著者・三宅香帆さんも同じような思いを冒頭で述べています。
働いていると、本が読めなくなるのか!
社会人1年目。そんな自分にショックを受けました。
が、当時の私にはどうすることもできませんでした。結局、本をじっくり読みたすぎるあまり ━ 私が会社をやめたのは、その3年半後でした。
そこから、こんな疑問が生じます。
「いや、そもそも本も読めない働き方が
普通とされている社会って、おかしくない!?」
さらに
その根底には、日本の働き方の問題があります。
働いていて本が読めなくなっている状況から、私たちの文化(文化的生活)が労働に搾取されているという問題を、三宅さんは冒頭ものすごい熱量で書いています。
そして
労働と読書の関係を、本書で紐解いてゆくのです。
とても緻密な分析がなされていまして、
興味深く読ませていただきました。
しかしながら
本書を読んでいて感心したのはそこではありません。心に刺さったのは後半部分。
「半身社会」を目指すということ。
三宅さんの提唱しているのが「半身で働く社会」つまり働いていても本が読める社会なんですね。
高度経済成長期の男性たちは、全身仕事に浸かることを求めた。そして妻には、全身家庭に浸かることを求めた。
それでうまくいっていた時代は良かったかもしれない、だが現代は違う。
仕事は、男女ともに、半身で働くものになるべきだ。
本が読めない社会とは
三宅さんはこう語っています。
仕事だけではないかもしれない。育児や介護、勉強、プライベートの関係。そういったもので忙しくなるとき、私たちは新しい文脈を知ろうとする余裕がなくなる。
新しい文脈を知ろうとする余裕がないとき、私たちは知りたい情報だけを知りたくなる。読みたいものだけ読みたくなる。未知というノイズを受け入れる余裕がなくなる。
長時間労働に疲れているとき、あるいは家庭にどっぷり身体が浸かりきっているとき、新しい「文脈という名のノイズ」を私たちは身体に受け入れられない。
1冊の本には自分が知りたい情報以外にも偶然性が含まれます 。つまり読み手が予想しない、あるいは予想できない知識や情報が飛び込んできます。
自分から遠く離れた文脈に触れること ━ それが読書なのである。
新しい文脈を取り入れる余裕のある社会。
それが働いていても本が読める社会なんですね。
そして
三宅さんの魂が叫んでいるこの言葉が、
泣きたいくらい心に突き刺さりました。
つまり私はこう言いたい。
サラリーマンが徹夜して無理をして資料を仕上げたことを、称揚すること。
お母さんが日々自分を犠牲にして子育てしていることを、称揚すること。
高校球児が恋愛せずに日焼け止めも塗らずに野球したことを、称揚すること。
アイドルが恋人もつくらず常にファンのことだけを考えて仕事したことを称揚すること。
クリエイターがストイックに生活全部を投げうって作品をつくることを、称揚すること。
━ そういった、日本に溢れている、「全身全霊」を信仰する社会を、やめるべきではないだろうか?
半身こそ理想だ、とみんなで言っていきませんか。それこそが、「トータル・ワーク」そして「働きながら本が読めない社会」からの脱却の道だからである。
【出典】
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」三宅香帆 集英社新書