自分の会話の苦手さから広げた思索
社会と自分の間の引き裂かれの問題について。簡単にいうと仕事とかで演じている自分と、自分が自分だと思っている自分との乖離が激しくて、それに苛まされている状態。
引き裂かれの問題はさまざまだが、今日は会話について。
会話における、社会と自分の間での引き裂かれ
自分は社会に望ましいとされていない発言をすることが多いと、自分では認識している。空気が読めなかったり、デリカシーのない率直な言葉、ぼーっとして人の話を聞いていない、(自分のなかではつながっているが)脈絡を無視した発言、明快じゃないどもるような「あ…う…」といったような澱んだ話し方、特に何も言いたいことが思いつかず長時間黙っていた結果「なんで何も話さないのか」といわれる、など。
こういう時に自分の社会との乖離につらくなる。
それだけならまだマシだが、こうした引き裂かれによってつらくなり、何も考えてなかったがそれを誤魔化すようにそれっぽい薄いことをいう、なんか話さないと思ってたいして思ってないことをいったり、正直ぼーっとしてて聞いてなかったがなんとなくこういう流れかな的な感じで適当に発言することもある。
会話のイップスのような状態だ。
社会における望ましいとされる会話法
何と引き裂かれが起きているのかというと、社会的に望ましいとされる話し方である。
たとえば、結論から話せてわかりやすい、論理的に整理されていて説得力がある、相手の意図を汲み取れる、文脈をつくって話せる、エビデンスベースだったり学術的バックグラウンドがある展開、抽象と具体を行き来しながら話す、など。
上記は望ましいレベルだが、それよりもっと基本的なところで、人の話を聞いている、そもそも発言している、言ってる意味が一定誰にでもわかる、そもそも一定はきはきしゃべれていて聞き取りやすい、かといって高圧的ではいけない、自分ばかり話してはいけない、誰かを傷つけてはいけない、など。
このあたりに、自分はことごとく合致してないので、普通に振る舞うと前述したように相手に違和を感じさせて、つらくなってしまい、それは申し訳ないなと思いイップスにつながっていく。
さまざまな会話のかたちが許される環境
特につらさを感じない環境もある。親しい人になると自分の話し方もわかっているので、特に違和も感じずに話すことができる。自分と頭の中で話す際とかも当然この展開がおかしい、わかりづらいとか思わない。自分のなかではつながっているためだ。
このような環境は関係性もあるし、ビジネスのような時間制限・成長といった生産性が求められない状況というのも影響している。今まで自分ごととして書いてきたが、人の会話の形式はさまざまで望ましいとされるものから外れるという悩みは自分だけではないだろう。
そう考えると、前述したような親しい関係という例で挙げたような、さまざまな会話法が許される状況になるに越したことはないはず。会話のつらさをできれば減らしたい、と思った時の一つの道筋が、「この優しい環境がもっと広がれってくれよ」という方向性である。
さまざまな会話の形式が許されることの真っ当さ
この環境は今の常識で考えると「そんなバカな」「社会回らんよ」となると思うが、そもそも「わかりやすい会話」というものは、先ほども述べたように家族のような親しい関係ではあまり必要ではない。どこで必要になるかというと、やはりビジネスや生産性に関わる活動に関してだと思う。
農耕型の社会で決まったルーティンを身体的に覚えている社会だったら、求められなかっただろう。またケア的な文脈からも言及できると思う。
何かのケアや政治などの文脈の本で読んだが、「社会を変えないのは声を上げないのが悪い」「それはあなたの伝え方が悪いよ」という言説は片方の正しさのコミュニケーション形式に合わせたロジックであり、正しいとされるコミュニケーションを取れない人の状況は一向に改善しない。(しかし、政治ではこういった状況は普通に存在している、とケアと政治の本を読んでいると語られている)
これと同じように、人間としてコミュニケーションにおいても別に画一的なわかりやすさに合わせないと会話に参加できないということはないだろう。
つまり、違和のある会話を展開したとして、「どういうこと?」と普通に聞くことは双方が対等な立場としての会話であることから当然としても、「結論からわかりやすく話してほしい!」「考えがまとまってから話してほしい」ということはビジネスでは(仮に)許されるとして、生産性が絡まらない状況では暴力的であるということ。逆にいうとビジネス上だと、暴力的なコミュニケーションが生産性のロジックに基づき普通に行われざるをえない。ここに会話の苦手な自分と社会の引き裂かれが起こる。
ビジネスとの引き裂かれでは?といわれるかもしれないが、ビジネスシーンでのこうしたコミュニケーションが人間として正しいと思っており、私生活でも「もっと端的に話して」という場面を見たことがあるはずだ。自分も、ダブルスタンダードで申し訳ないが普通にある。
つまりビジネス上でのコミュニケーションの常識はどんどん人間に内面化していき、文化になる。こう考えると、ひろゆきの真似が小学生のなかで流行することへの漠然とした違和感も、腑に落ちて感じられる。
自分の会話法を見出す
前の見出しは、わりと社会としてあるべき姿の提示になった。しかし、個人レベルでは、そんな優しい社会を待っていてもつらさは軽減されない。
結局、自分にとってしっくりくる会話法を見出すことだと思う。
引き裂かれがつらく感じるのは、自分のなかでも別に自分の会話法を選択したものではないということがあると思う。だから、適応だけを行う。自分のこういう会話をしたいというのが特にないから。そういう状況で「わかりやすく話して」と言われたところで、自分もこれを選んでないから「そうだね」とならざるを得ない。
自分に合った会話法が見出せれば、それを提示したり理解してもらうことができる。
たとえば、自分の周りには口頭での議論より、テキストでの議論をした方が明らかに成果が出る、仕事仲間がいる。これはお互いに色々試す中でわかったことで、今はそれをベースに仕事をしている。
会話についても自分にとって、仮に黙ることに意味を見出せれば、「何で黙ってるの」と言われても事情を説明できたり、会話の最初に理解をしてもらえるように働きかけられるかもしれない。
社会と自分の引き裂かれを味わう
ただこれが適応しないとという義務ベースになるとつらい。大事なのはその引き裂かれている状況を味わうことだと思う。
引き裂かれている状況でしか見えない視点や、無意識にある自分のこうありたいという望ましさのようなものがあると思う。
「コミュ力が9割」みたいな自己啓発書を読んで、模倣すれば楽かもしれないが、(模倣自体、自分にはできないし)そのやり方だと特に発見や自分の無意識のこうありたいみたいなものはただ失われてしまうだけである。
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この文章は尹雄大さんの「句点。に気をつけろ」に刺激を受けて書いた。
あとは会話ではないが、立岩真也さんの文章を読んでてかっこいいなと思ったのもある。
立岩さんの文章は、自分の理解では「(特に統計も社会学の古典も参照せず)いったん自分で考えてみる」というスタイルである。「ああ、こういう書き方でいいんだ」と思わせるものがある。社会学のよくある展開のフォーマットには準じていないと思う。
もちろんこの書き方で学術的な実績を出せているのは立岩さんだからだと思うが、自分は別に業績を出したいとかはない。自分のための文章など、自分のスタイルでいいと思う。おそらくこれは会話にも通じるものがある。
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今できることとして、自分の会話のかたちを見出すことを挙げたが、少なくとも自分の働いている場所では会話のそれぞれ具合を担保するとかは、必要だと思う。
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