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「物語の語り手の第一の義務は」2025年1月19日

■10時ごろ起床。散歩がてらに、馬事公苑のロイヤルホストへ。モーニングは終わってしまっていたから、クラブハウスサンドを注文する。『細雪』をまた少しずつ読む。twitterでたまたま見た舞台写真がとてもいいと思って、森下スタジオでやっている「ブルーエゴナク」というユニットのカフカの『変身』を当日券で観にいくことにする。
■清澄白河の駅から歩く。森下スタジオに来るのはもうずいぶん久しぶりだ。当日券を買って、開演までまだ少し時間があったから、近所のカフェでコーヒーを飲む。ドーナツも頼む。レモンピールが入ったドーナツ。ずいぶん洒落た店だが、照明が暗すぎて本が読めないし、椅子がガタガタして落ち着かない。洒落た古本が、インテリアのようにして数冊重ねてテーブルに置いてあって、これはなんなのだろうか、手に取っていいのだろうかと思う。
■森下スタジオは、創作の場所として、やはりとてもかっこいいスペースだ。カフカの『変身』。この小説が、心から好きだという人はいるのだろうか。名作だとは思うが、何より気味が悪いし、そして救いがない。けれど、今回の上演は、物語の語り手とは何かを考える、とてもいい上演だった。『変身』は戯曲ではないから、その地の文としての語りを望月綾乃という俳優が主に務める(他の役もやりながら)。彼女がとても良かった。語り手は、舞台の上で、自身が語る内容を見つめる。一部始終、そこで何が起きるのかをじっと見て、じっと見守っている。だから、グレーゴルが、あの部屋の中で一人で死ぬことになっても、語り手だけはそれを見ている。「それを見ている人がいる」。それがどれだけの救いだろうか。劇の最後、グレーゴルの家族は彼の存在を忘れて新しい生活を歩むことになる。暗転の後に、物語の語り手がもう一度現れる。何も言わない。物語はもう終わったからだ。彼女は、舞台を片付けて、もう一度最初の場面に戻す。そこにグレーゴルが現れる。彼女=語り手は、グレーゴルをじっと見る。それが、それこそが語り手の役割だから。
■劇を見終わって、演出の人だろうと思う人に、「とても素晴らしかったです」とひとこと伝えて、帰る。行きの道で看板を見て気になっていたparadeというカフェで、コーヒーを飲んで休憩。いい意味で「雰囲気のない」明るい内装に、ジャズがいい音で流れていて、心がゆっくりできる。突然に、この町に住むのもいいのかもしれないと、わりかし本気で考える。とても気に入ったので、「また来ます」と行って帰ったが、本当に来るのだろうか。来るとしたらやはり、この町に住むときかもしれない。通りの不動産屋の物件情報を見るなどして、本当に引っ越したっていいのかもしれないと、そんなふうに思う。まだもう少し歩きたいと、清澄白河の駅を越えて、Mさんのお墓に参る。さいきんのダメな自分を、叱ってほしかったのか、あるいは慰めてほしかったのか。いずれにせよ死者は、叱りもしないし、慰めもしない。ほんの少しだけ雨が降る。
■夜に、『細雪』と宮地尚子の『傷を愛せるか』をコートのポケットに入れて、マイ・スウィート・ホーム・サイゼリヤこと、サイゼリヤ芦花公園店へ。日曜の夜だからか、人が多い。『傷を愛せるか』の最後に収録された同名のエッセイを読む。ワシントンD.Cのベトナム戦没者記念碑を訪れることから始まる、傷をめぐる文章。日曜夜7時の賑やかなサイゼリヤ芦花公園店で、静かに感動する。おそらく、何度も引用されてきた一節だろうが、すばらしい文章なのでここにも引用したい。
■「傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないように、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生き続けること」
■自分の傷のことを考える。そして自分にとって大事な人の傷のことを考える。雨が降った後で、少し気温が上がって、そんな夜の町を、家まで25分歩く。


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