レタスを買った日
レタスを買った。なんの変哲もないレタス。逆に変哲のあるレタスとは何か気になってくるが、僕が買ったのはなんの変哲もないレタス。そう言えば、「変哲」って言葉、全日本人がマジックショーで学びましたよね。意味を正しく説明しろと言われれば、急に自信が無くなってくる言葉「変哲」。
自動ドアをくぐり抜け、スーパーに入って、カゴを取るのを忘れたことに気がついて、また自動ドアをくぐり抜け、赤いカゴを取ってもう一度自動ドアをくぐった。申し訳ないなあと思いつつ、僕のためだけに3回もセンサーを反応させドアを開け閉めしてくれた自動ドアに「ノーベル“自動ドアくん僕のために何度も開け閉めしてくれてありがとう”賞」をあげたいところだが、残念ながらそんな賞は今のところない。
赤いカゴを手に入れた僕は、目の前の棚に置かれたただ一つの黄緑色のレタスに目を奪われた。赤く太い文字でアピールされた99円の文字。おっ!と思った。レタスにしてはそれなりに安い気がする。それなりに大きな棚に一つしかレタスが残っていないということは、それなりに需要があって、それなりに売れているという証拠のような気がした。ただ、僕はレタスを買う気でこのスーパーに入った訳ではなかったため、一旦スルーという選択をした。
かといって、何かお目当てのものがあってスーパーに立ち寄った訳でもない。家に帰っても食べるものは無いし、家の近くのラーメン屋に行く気分でも無いし、でもお腹は空いている。ただそれだけの理由で入ったのだ。
野菜コーナー。お肉コーナー。鮮魚コーナー。お菓子コーナー。卵とか牛乳とか冷凍食品とかのコーナー。何かしらの目的も無く入ったスーパーは、意外とそそられるものがない。
結局、店内を一周してレタスコーナーに戻ってきてしまった。黄緑色の瑞々しいレタスはまだ一つだけ残っていた。レタスに目なんてついている訳がないのに、私を買ってくれという強い眼差しを彼から感じてしまった。99円の太くて赤い文字が添えられたレタス。買う以外に選択肢はなかった。
赤いカゴの中に一つだけ堂々と佇む黄緑色のレタス。他に何か買うのも失礼な気がした。誰に対する失礼なのかは知らない。僕とこのレタスとの出会いは、他の誰にも邪魔されてはいけないと思った。脇目も振らずレジに向かった。
99円だと思っていたレタスは、税込で106円だった。たった7円しか変わらないが、ワンコインで買えると思っていたものが、ワンコインで買えないと分かる瞬間の感情は少し複雑だ。「レタスくん、裏切ったね?」たった7円でごちゃごちゃ言う僕は、レタスくんにとってはもっと嫌なやつだろう。結局100円玉と10円玉を出した。お釣りの4円はレジに備え付けられた募金箱に入れずに、財布の小銭入れにチャリンと入れた。僕はこの一連の行動がいわゆる“蛙化”を誘発させてしまうことを知っているが、レタスくんはそんな人じゃないことを知っている。
「ノーベル“自動ドアくん僕のために何度も開け閉めしてくれてありがとう”賞」最有力候補の自動ドアくんに最後の開け閉めを担当していただき、別れを告げた。レジ袋もマイバッグも持っていない僕は、当然のように左腕に黄緑色のレタスを大切に抱えて歩いている。
すれ違う人たちはどう思うだろうか。オレンジ色のバスケットボールを抱えて歩く少年ではなく、黄緑色のレタスを抱えて歩く成人男性。レジ袋代さえ惜しむケチ臭い男か、シンプルに頭のネジが1本外れている男か。なんと思われようとどうでもいい。彼らは僕とこのレタスの関係性を知らないのだから。
レタスくんは僕をどう思うだろうか。孤独から救ってくれた救世主か、4円を募金箱に入れないケチ臭い男か。しかし、レタスくんになんと思われようと僕にはどうでもいい。どうせ家に帰ったら、彼は切り刻まれて僕の胃の中に入る運命なのだから。
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