食リポは必要か
食リポはなんのためにあるのか、生まれて初めて食リポをテレビで観た時からよくわからなかった。そして、いまもイマイチよくわかっていない。
味覚はある。でも言葉は味覚に直結しない。テレビで「芳醇な香りが口の中に広がります!」と言われても芳醇な香りを今まで芳醇な香りとして認識したことがないし、「スープが意外とあっさりしているんですね!」と言われても何が意外だったのかわからないし、「独特な風味がいいアクセントになってます!」と言われても独特は独特でしかないので誰にもその独特は伝わらないし、アクセントは楽譜の上でしかみたことがないじゃないか。そして1番伝わらないのが「これまで食べた〇〇の中で1番美味しいです!」だ。あなたの歴代〇〇の中では1番かもしれないけど、あなたの食べたことある〇〇を全て把握しているはずがないし、こっちの歴代〇〇の中では最下位の可能性だってある。まいう〜の人とかねじねじスカーフのおじさんが言うのならわかるけども。
そもそも食リポの一番の良くない点は「まずいです!」「吐きそうです!」「この値段に対してこの味は期待外れです!」とは言えないことだ。よくドッキリなどで、芸人に激マズの料理を美味しそうに食リポさせるやつがあるけど、あれが全てを物語っている。食リポはフェイクであり、フィクションであり、ジョークである。
ではなぜ食リポはあるのか。それは料理の味を視聴者に伝えるためではない。と思う。
食べる人の目の輝きや瞳孔の開き具合、ふぅふぅの回数、勢い、箸の使い方、滲み出る汗、暑くなってきた〜と言いながらかきあげる髪と見える首筋、おいしい〜と喜ぶ幸せそうな笑顔、カメラ目線、止まることを知らない右手、そしてもう一度、おいしい〜!これらを見るためにあるのではないかと。だから永野芽郁が食べればそれだけでこっちも幸せになるし、言葉なんて「おいしい〜!」だけで十分じゃないか。と思う。
美味しい以外になんか言っても「焦げた雑巾の香りが口の中いっぱいに広がります」くらいの強烈なインパクトのある感想を言わないと3秒後には忘れてしまうだろう。
新海誠監督の「君の名は。」では主人公の男の子が女の子の手の平に油性マジックで「好きだ」と書く感動的なシーンがあった。あれもそうじゃないか。女の子はその男の子の名前を知りたかったのに、男の子は名前を書かずに愛情表現をした。名前は忘れてしまっても、想いは時空を越えて一生消えないというメッセージだろう。食リポでも、「おいしい」「好きだ」という想いが伝われば他の言葉なんていらない。と思う。
でもまあ、これはぼくの下らない考えにすぎないし、食リポを通じて口の中にその味を完全に思い浮かべることができる人もいるかもしれない。そんな人にとっては食リポは大事かもしれないし、別にいらんかもしれない。
結局、何が言いたいのかというと、食リポは若手芸人にやらせるのでは無く、今をときめくかわいい女優さんにやらせるべきだということ。
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