【空より下る狐の松明】
民間警備会社という職業を経て、日本にある秘密組織であるDA(Direct Attack)へ彼が招かれたのは、彼の恋人であるシンジと出会うよりも前のことだった。
とある事情から足に重傷を負ったことで現役を引退したものの、その経歴を買われて日本へ赴いたのは、彼自身本来の理由にあった“安らぎを得たい”という願望に沿ったものではあった。
実際には、そんな彼の心情すらある程度プロファイリングされた上でのことだったのだろうが。
────だが日本へやってきた彼が知ったのは、この国が表面ほど華やかかつ豊かで、また穏やかではないという事実だった。
……今では年間7万人近い孤児が全国に散見され、それらを受け入れる施設は常に満員に近い。
が、同時にそれらの施設が定員オーバーになることが決してないことも知ることとなった。
リコリス……そしてリリベルという名の組織。
花の名前をモデルにした、秘匿を旨とした治安維持組織。その目的は、国内に潜伏、あるいは発生するテロリストや非合法かつ反社会的勢力を人知れず排除するための存在。
全てを知ったときには、そこでの教官を断るという選択肢は存在しなかった。
子供を兵士に仕立てるというのはミカ自身戦場で都度見かけることがあったが、まさかそれを自らがすることになろうとは、思わず嘆息したものだった。
しかし、そこで必要とされるのは兵士ではなく暗殺者。それも、プロとして、チームとして動く一定以上の水準が求められる存在だった。
それを見越してなのか、集められた孤児たちは潜在的に高い“才能”を有する者たちが集められていた。
最初はあまりに幼い彼らに戸惑ったものの、PMCとして教官の実績があったことも功を奏してか、彼らはメキメキとその実力を伸ばしていった。
リコリスの教官となったミカが従える幼い少女らに与えられる選択肢は、よりその実力と忠誠心、そして判断力を高めること。それ以上の、またそれ以外のことは原則的には求められていないことは早期に理解した。
標準的な振る舞いを必要とするうえで一般的な教養も身に着けはするが、それは彼女らが日常に擬態する上で身に着ける制服そのものとも言えた。実質的に必要とされるのは射撃術や観察術、後は多少の語学といったところだろうか。これは対応するテロリストがむしろ諸外国から入国する場合が多いゆえの必須技能とも言えた。
……しかし正直に言えば、ミカ自身はリコリスを、もといDAという組織を嫌悪していた。これならばまだ、兵士としての要素を兼ね備えたリリベルの教官であった方がよかったと思ったほどだ。
それは彼が子供という存在そのものが苦手だったことも影響していたかもしれないが、どれだけ言いつくろったところでリコリスと呼ばれる存在は、日陰に置かれた掃除道具。いずれ消耗される道具そのものだったからだ。
だから、そんな生活の中での『彼』との出会いは、ミカにとってはさながら乾いた荒れ地で見つけた潤いだった。
吉松シンジ。
DAではなく、アラン機関のエージェントだという彼の目的は、アラン機関の活動方針である“才能の保護”というものだった。アラン機関がリコリスやリリベルといった組織へ援助しているというのを彼から聞かされ、ミカは驚いたものである。
なにせアラン機関という存在自体、ミカも聞いたことがあった。それは世界的に活躍するメダリストや著名な論文の著者らが共通して身に着けるフクロウを模したアクセサリー。そして彼ら彼女らが総じて「アラン機関から援助を受けたおかげ」だと、自らの功績を評していたからだ。
そんなシンジとの関係が深まるのに、そう時間はいらなかった。逢瀬はそう多いものではなかったが、同時に濃密だった。
朝日を見ながらミカが入れたコーヒーを飲んだシンジの顔は、初めて見るほど苦々しいものだったが。
そんな彼との関係は仕事上で得た“才能ある子供たち”を紹介するという以上のものだったが、そんな中で手掛けてきた生徒に一人とんでもない逸材がいた。彼女を紹介したのも、シンジなら飛びつくだろうということがわかっていたからだ。
錦木チサト。
二人で会うときには決まって利用する会員制BARで喉を湿らせつつ、ある日ミカは少女らが行う体力測定という名の実戦訓練の様子の動画を見せた。
そこには、チサトと呼ばれる少女が超人的な動体視力と圧倒的なセンスで複数人のリコリス候補生を圧倒する姿が映し出されていた。
彼女はその〝目〟で、射線の把握どころか服の皺や筋肉の動きすら〝視て〟しまう。
ミカ自身、戦場で時たまこういった化け物と出会うことはあった。彼の足を撃ち抜いたのも、そんな人間による仕業だ。
そしてそんな才能を持つ人間ならば、シンジは必ず興味を持つ。最初はその程度の気持ちだった。才能を持つ人間を見ることに何よりも喜びを持つ彼なら、チサトという『才能を持ちながら先天性の障害を持つ存在』を放ってはおかないだろうからだ。
それはミカからしてみれば、一種の我儘だった。シンジがDAを訪れたのは、あくまで才能を保護するため。そしてそんな彼が喜び、訪れる機会が増えるのならば、と。
予想通り、すぐにシンジはチサトに夢中になった。なにせ彼にとって、その余りある才能と、彼女が持つハンデはアラン機関が持つ『使命』にうってつけだったからだ。
先天性の心疾患があり、余命半年でありながら僅か7歳でCARシステムを実戦レベルで習得。あまつさえ弾丸を視て躱すその圧倒的な才能は、シンジをして「銃では彼女を殺せない」と舌を巻くほどだった。
そして、心疾患によりその寿命が長くないことを知った彼は即座に動いた。
それはある日のことだった。
どこから用意したものか。恐らくアラン機関によるものだったのだろうが、シンジは体内に収まるサイズの人工心臓を入手し、それをチサトに提供すれば彼女の寿命を延ばせると言った。
それは契約……約束でもあった。シンジからミカが頼まれたのは、術後彼女の才能を活かすよう助けることだった。そして、その為に彼女の親代わりとなることも。
親子ごっこ。ミカはその行為をそう称した。
……だが、その“ごっこ”は、天真爛漫としたチサトとの時間が増えるにつれ、ミカは彼女が持つ才能を本来の形で発揮させることが正しいのか、わからなくなっていく。
シンジとミカ。二人が最後に言葉を交わしたのは、術後の様子も安定し、拍動がない人工心臓への最初の充電までを見届けた日だった。
その日、シンジは雪が降る中、ミカの前に立って告げた。
「ミカ、これであの子は……彼女はその才能を世界の為に使うことが出来る。君には感謝しているよ」
「どうした、急に改まって」
触れれば届く程度の僅かな距離。しかし、急にその距離が無限にも遠く思えた。
「……いや、大したことじゃないんだ。僕の役割はもう終わったからね。だからこそ、ここからはミカの役割だ。約束を……僕たちの娘を頼んだよ」
「シンジ……」
まるで末期の言葉のように神妙に語る彼を見て、ミカは思わず手を伸ばそうとする。
────が、シンジはそれを察したように、彼の手が伸びる前に振り返ってしまった。
その背に語り掛けるのが憚られながら、同時にミカはまだ期待していた。これが今生の別れではないだろうということを。
しかしそれきり、シンジの姿はポツリと消えた。
まるで、彼との日々が夢だったかのように。
残されたチサトはいなくなった彼のことを無邪気に「きゅうせいしゅ」と呼び、ミカは約束を果たすため、彼女の保護者となった。
ミカにしてみれば、彼が姿を見せなくなった理由がわからなかった。彼自身エージェントとしてあちこちを飛び回っており、その逢瀬自体頻繁ではなかった。それでも、連絡先すら断絶し、ミカをして存在が消えてしまったかのように感じる彼のことを、思い出さない日はなかった。
そしてあの日触れることの叶わなかった彼の温もりは拒絶ではないと願いつつも、彼はまだ幼い彼岸花の成長を見守ることに徹するのだった。
……そして、ミカがこの時チサトに真実を告げなかったことが、後に再びシンジとの邂逅を巡らせることとなる。
────思っても見ない形となって。
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