眼差され純化する伝統 バリのバリ化
バリ島は不思議な体験だった。この島の歴史は古く紀元前300年からの人の居住、ヒンドゥー教の伝来、ジャワの支配、オランダ植民地時代を経て、独立に至るまでの変遷がある。
19世紀のオランダ植民地時代には、多くの伝統が失われたかけたが、奇妙な巡り合わせにより、また奇妙な復興を遂げることになった。
1917年の大地震とその後の災難は、バリの文化保護政策に大きな影響を与えた。バリの人々はその災難を儀礼によって乗り越えようとした。バロンの練り歩きやサンヒャン・ドゥダリなどの儀礼が盛んに行われた。当時のヨーロッパの世論も後押し、それらの文化習俗はオランダ人によって保護されたのだ。
一方で、バリは西欧にオリエンタルな魅力と共に紹介され、多くの観光客が訪れるようになる。そこで求められるのは近代化するバリの姿ではなく、見慣れない踊りや儀式を行う姿だ。
作物や資源に乏しいバリにおいて、その姿は飯の糧となる。西欧の人々もまた、バリの文化を尊重し(という建前か本音かわからない姿勢により)、より「バリらしいバリ」を後押していく。
現代のバリは、外からの目を通して形作られた姿を見せるが、その姿が本来のバリのそれどうかはハテナがつく。それでも、この文化は100年以上続いており、バリに住む多くの人々の生計の源となっている。バリ島はその歴史と文化の奇妙なねじれのなかにある。
しかし、全てが観光用の習俗かと言われればそうでもない。お盆の時期は先祖を迎え、石像には毎日お供えを欠かさない。バロンだってケチャだって今もその延長線上にある。
純粋な文化という期待するその眼差しは、かつてのオリエンタリズムのそれと変わらない。そのクレオール性にこそ文化のダイナミズムはあるのかもしれない。