川への想いが記憶されているような 志木市『敷島神社』
武蔵野の富士塚を求めてさまよううちに、ここにたどり着いた。
ここには立派な『田子山富士』があるのだけど、この時はまだ開山前で(コロナ禍でどこも遅れているらしい)、登ることは叶わなかった。
隣の神社が何かガヤガヤしている。
おっちゃんたちがタバコ吸いながら談笑していて、その横に茅でできたツクリモノがある。
これ何かと聞いたら、七夕用のウマとのこと。
ずいぶんと味がある、いいウマだ。
みると、茅の輪をつくる最中のようだ。青々しいマコモの葉の匂いがする。
ちょっとこっち来なと、社務所へ連れて行かれると、ホームセンターの木材を組み合わせたような鳥居付きの板が出てきた。
「茅で作った舟にこれを載せて、新河岸から江戸まで流すんだ」と説明してくれた。
ここいらは、江戸時代から明治期まで川を使った運送が盛んだったところ。荒川水系の新河岸を通って、新田で育てたサツマイモや飯能辺りの木炭などを江戸まで送っていた。江戸からは肥料となる干鰯・〆粕・灰(あと下肥も)や、内陸では手に入らない塩などが帰りの舟に載って来た。
かつてはそこかしこに河岸場があり、志木はこの運送業で大いに潤った。一方で、荒川水系は暴れ川として、頻繁に水害もあったという。
大正期に鉄道が敷かれることでこの舟運は消滅し、荒川には堤防が築かれ、川と街との関係は変わっていく。
現在は東京圏のベッドタウンとしての機能を担っている。
この舟送りは、当時の川への感謝と畏れの想いが記憶されているように感じた。
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