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移民としての日本人、その歴史 全米日系人博物館

全米日系人博物館。
日系アメリカ人の歴史と物語は、他の移民のそれと大きくは同じで、幾分違っている。

かつて、日本から貧しく勇敢な移民たちが太平洋を渡り、新天地カリフォルニアへと足を踏み入れた。19世紀後半、明治維新の波に乗り、未知の世界への扉を開いた時代である。彼らは農業や漁業、鉄道建設といった仕事に従事しつつ、新たな環境に順応し、日本の文化を守り続けた。

カルフォルニアで着られていた着物。



その後、アメリカの大地に根を下ろした日本人コミュニティは、言語や文化の絆で結ばれ、リトル東京やジャパンタウンといった独自の社会を築き上げた。彼らは農業、ビジネス、教育など多岐にわたる分野で輝かしい成果を上げる一方で、人種差別や排外主義の壁にも直面した。

アメリカの地で事業を手がける日系人
安井兄弟輸入品商社。



しかし、歴史の暗い影が彼らを覆う時が訪れる。1941年の真珠湾攻撃後、彼らは敵性外国人とみなされ、1942年にはルーズベルト大統領の大統領令9066号により、約12万人が強制収容所へと送られた。そこで彼らは自由を奪われ、財産を失った。

マンザナー日系人強制収容所
収容所の多くは砂漠地帯、かなり厳しい生活だった。
収容所の中で日系人(特に一世)たちは、和風の工芸品を沢山つくり自らの民族的アイデンティティを保とうとしていた。



戦後、日系アメリカ人は社会への再統合を目指し、公民権運動に身を投じる。そして1988年、アメリカ政府は「市民の自由に関する法律」を通じて強制収容の過ちを認め、生存者に対して補償を行った。

正義は今、償いは今。
強制収容所があったマンザナーを巡礼した記念のポスター


今も「Ireichō(慰霊帳)」に親族の名前を探し手を合わせに来る「Nikkei (日系)」の人々の来館が絶えない。

慰霊帳に先祖の名前を探す子孫たち。
博物館の中に仏式の慰霊を行うスペースがある。
収容所から移設された建物を観る日系人たち。

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