今どきの若い者は・・・
今から4000年ほど前のエジプトの遺跡で見つかった手記に、「この頃の若い者は才智にまかせて、軽佻の風を悦び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするのは嘆かわしい」と書かれていたという逸話がある。出典は、民族学の泰斗である柳田国男氏の『木綿以前の事』(岩波書店)であるが、実はその手記は見つかっていない。いわば伝聞による都市伝説なのであるが、ともあれ、このような話が出てくる背景には、いつの時代も我々ロートルが、自分たちの時代を必要以上に美化し、共感しにくい若者たちの言動に対し批判の声を浴びせてきたという事実がある。
若者たちに呼び名をつけることもよく行なわれる。私たちの世代に対しては「モラトリアム人間」とか「新人類」などのネーミングが飛び交っていたが、最近の若者は「さとり世代」など命名されている。そこには、覇気のなさや諦めムードが漂う若者像への批判が込められているのであるが、はたしてこの指摘は当たっているのだろうか。
私が見る限り、今どきの若者は、目の前の課題を認識し、討議を通じてその解決方法を見つけ出し、それを実行する力という点では、我々の世代よりもはるかに優れている。彼らは、高度経済成長もバブルも経験したことのない世代。黙っていても右肩上がりに社会が動くということを経験したことはないので、課題は自ら解決するしかないと考えている。しかも、資源や人材に限りがあるなかで空理空論が通らないことも良く知っている。
その一方で、彼らは生まれた時からインターネットにつながっているので、情報通信技術(ICT)という強い武器を携えている。学校でも、幼いころからアクティブ・ラーニングという名の課題解決型の授業を受けてきた。先生の教えをノートに書き写していただけの我々の世代とは雲泥の差なのだ。だから、ただただ斜に構えて「社会が悪い」「政治が悪い」と言い、他人とは異なる視点を示すことだけで満足し、実践もせずに「私、利口でしょ」と悦に入る我々の世代には、冷ややかな目しか向けてくれない。これが「さとり」に見えるだけなのではないだろうか。
コロナ禍を経験し、我々大人は、日本が如何に頭でっかちな議論の末に、危機に対処できない社会システムを作り上げて来たかを思い知った。戦争反対イコール軍備反対との空気が防衛力強化の議論を妨げ、自国の安全保障を危うくしてきた。反原発運動が今ある原発の安全対策を論じにくい空気を生み、原発事故へを備えを遅らせた。戦争反対と防衛力強化は両立するし、反原発と今ある原発の安全対策も両立するのに、なぜか議論をすること自体が汚らわしいものとされてきた。ロックダウン=戒厳令というイメージがパンデミック対策に隙間を生み、個人情報の保護やデジタル・ディバイドへの過度な配慮が情報通信技術(ICT)の利活用を大幅に遅らせたのも、同じ構図だ。
こうした我々大人たちの壮大な思考停止を「今どきの若い者」はどう評価しているのだろうか。若者に対する酷評は、異質なものに対する恐怖の表れでしかなく、耳障りな批判を避けるための自己防衛にすぎない。今こそ「今どきの若者」と真っすぐに向き合い、彼らの言葉に謙虚に耳を傾ける必要がある。行き詰った戦後民主主義の頭でっかちなロジックを打ち砕き、敗戦処理のヒントを与えてくれるのは、同時代を生きる「今どきの若い者」を措いて他にはいないのだから。