【三島】割烹の名店を訪ねて
大変丁寧で、低姿勢で、食を勉強されて、様々なお店を食べ歩かれ、情報を収集されていらっしゃる板前さん。清潔感のある店内、季節料理「あまね」。久しぶりに訪れてみたが、やはり美味しいし、人に紹介したい店だった。店名通り、1-2ヶ月毎にメニューが変わるらしい。
その後、近くにあるバー YUMOTO
その後、予約したホテルへ向かうが、ワクチン証明書の写真を持っていたが、免許証などの身分証を忘れてしまい、旅行割引適応できず、千円クーポンも貰えなかった。余分に1200円を追加で支払い。ちょっと悲しい。まぁ酔ってるのでどうでも良いかと。
さて目的は「料理あまね」だったのだが、三島から伊豆箱根鉄道で、韮山に来た。韮山は修善寺までの途中にあって、近くには長岡温泉があるし、頼朝が平治の乱で敗れ、流された 蛭ヶ小島がある。他に韮山に何があるか?反射炉がある→笑。この反射炉と言葉を聞いてピンと理解してる人はそんなに多くないと思う。そう思うと自然と足が向かっている。正式名称 「世界遺産 韮山反射炉」。まず 韮山って地名の読み方も引っかかるし、反射炉ってのも引っかかる。
江戸時代後期 日本は列強の植民地政策に危機感を覚え、国防を真剣に考えるようになった。その際に大砲や鉄製品が必要になり、均一に大量に生産するには 鉄の精錬技術が必要だった。もちろん戦国時代にも大砲があったが、銅製の大砲であり、材質、耐久性、均一性は鉄と比べ遥かに劣る。因みに鉄の融点は1500度、銅は1000度であり融点が高いと加工が難しいが、耐久性が高い。さらにヨーロッパでは反射炉技術によって鉄製品が大量に作られ、産業革命にも繋がった。
反射炉の仕組みはネットにたくさんあるので書留はしないが、明治前の江戸後期に、ようやく鉄の精錬技術が進み、全国に反射炉が作られていった。当時の姿で残っているのは 韮山だけになる。
さらに韮山反射炉の製造に携わったのは、伊豆を中心に南関東まで約10万石(1石は1年間に1人の人間が食べる米の量なので、この地域だけで10万人以上を賄える水田がある)を管轄していた代官「江川太郎左衛門」という人。この名前は世襲なので何代目と受け継がれている。特に36代目の江川英龍で当時の反射炉技術を学び反射炉を建造し、東京湾の台場などに大砲の設置に関わった。面白いことに 日本で初めてパンを作った人でもある。これは兵糧パンといって軍隊や持久戦に向けて作られている。代官であり、外国のパン製造や製鉄に関していち早く取り組んだ人でもある。江川氏の邸宅が今でも残っており、江川氏の歴史や入口でパンも販売されている。
記事を書いてみてネット情報でも取れることをあえて書き下したが、キーワードは 反射炉、江戸時代後期、江川太郎左衛門、台場とか。学校で習った記憶もないが戦後GHQの検閲で記載されなくなったらしい。