地域の98歳のご婦人から戦争体験を伺う
僕は現在、兵庫県朝来市生野という田舎町に住んでいます。
先日、近所に住む98歳のご婦人が地元の中学校で戦争体験を伝えられたという話を耳にしました。
その時の資料を拝見しこれは世の中に残すべき文章だなと感じ、発信させてくださいと直接お願いにあがったのがこの投稿に至った経緯です。(その際にも2時間ほどお話しくださいました)
そのご婦人(小田垣久野さん)は元教員で、ご退職された後にご自宅で息子さんと寺子屋をされています。(息子さんも元教員)
そこは子どもの居場所のようなものにもなっていて、集う子どもたちにとっても貴重な学びになっているんだろうなと感じています。
また、今回この文章を掲載するにあたり、自分のnoteに載せるのが適切かどうか迷ったんですが、単純に読みやすさと手軽さで選びました。
売名目的じゃないからね!!笑
以下、全文掲載いたします。(長編です)
『太平洋戦争の時代を生きて』小田垣 久野
私は大正十五年に生まれました。昭和、平成・・・そして令和の今を生きています。九十八年を生きて、いろいろなことがありましたが、一番心に残っているのは戦争の時代を生きたことです。
現在の平和で豊かな暮らしは、太平洋戦争の悲惨な命がけの日々や、敗戦という苛酷な試練を必死で乗りこえてきたからこそ得られたものだと思っています。
田舎の鉱山町生野に住んでいましたので、敵機の空襲を受けるような直接の体験はありませんが、その悲惨さや苦しみ、物資のないつらさなど身にしみて感じました。戦争の時代を生きた者として、その恐ろしさ、むごさ、悲しみなどを戦争を知らない世代に伝えておきたいと思い、これまでにも機会をいただいて話してきました。
今、世界では、ロシア、ウクライナによる戦いが二年以上も続き、激しい攻防がくり返されています。ニュースを見る度に心がいたみます。
ガザ、イスラエルの紛争、内戦などで故郷を追われる難民もあとを絶ちません。どうして同じ人間なのに殺し合うのでしょう。また、恐ろしい核開発を進め、核実験をくり返す国もあります。十年余りの戦争を続け、世界最初の被爆国である日本は、今こそ声を大きくして平和の尊さを全世界に訴えなければなりません。
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昭和の初めごろ・・・私の子どもの頃、高速道路も新幹線もなく、生活ものんびりしていました。子どもたちは“自然を友達に”とばかりに群れを作って外遊びを楽しんでいました。テレビもない、ゲームもない時代です。自動車は駅前の旅館に一台あるだけ、鉱山病院の院長も町内に二軒ある医院の医者も往診のときは人力車でした。
道路も子ども達の遊び場の一つで、石けりや縄とび、かくれんぼなどをして、子どもたちのにぎやかな声があふれていました。
夕方六時になると、ラジオの”子どもの時間”です。ラジオの前に行儀よく座って、村岡花子さんのやさしい語りかけの子どもニュースを聞いたり、ラジオドラマを楽しんだりしました。
昭和八年四月、私は生野尋常高等小学校に入学しました。女子組、一クラス六十人くらいでした。この年、初めて明治時代から使われていた国語の教科書が一年生から新しくなりました。今までの教科書の黒表紙からやさしく明るいうす茶色の表紙で、内容も今までの黒白印刷からカラーの美しい挿絵に変わり大喜びしました。
表紙の次の一ページ目は、サイタ サイタ サクラガ サイタ・・・と美しい日本の春を象徴する満開の桜で元気に声を張りあげて読みました。しかし、次のページには、ススメ ススメ ヘイタイ ススメ・・・と変わり、小学校の教科書にも次第に軍国色が感じられるようになりました。
高学年の教科書には、戦場で日本軍の突撃路を開くために、三人の兵士が爆弾をかかえて敵の陣地に攻めこんで道をひらいた“肉弾三勇士”の話。ラッパ手として兵士たちの先頭に立って進軍ラッパを吹きつづけていたのに敵の弾丸にあたって死んでしまいます。「しかし、死んでもラッパを口から放しませんでした」と誉めたたえてありました。
また、日露戦争のとき旅順の港で沈んでいく軍艦に取り残された水兵を何度も探して遂に敵の弾丸にうたれた”広瀬中佐“の話などが取りあげられていたり、子ども心に「兵隊さんは強くて立派だ」「立派な軍人になろう」という気持ちが強く芽生えました。
そのころ世界中が不景気になっていました。日本は満州を理想郷にすることで景気の回復をはかりたいと考えていろいろな政策をうち出しました。 開拓団を送ったり、鉄道を充実させるなどです。そして満州国を独立させました。独立を世界に認めさせようと国際連盟にはたらきかけましたが、連盟は認めませんでした。日本は遂に国際連盟を脱退して世界の中で孤立していきました。そして軍事国家としての体制をますます強くしていくのでした。
私たち小学生も男子は高学年になると体操の時間には軍隊のような訓練を受けました。全校生が校庭にクラス毎に集合して閲童式があったり、全校生が分列行進をしたりと厳しい訓練も受けました。
日本は満州国の安定をはかるためには中国の勢力を取り除かなければと考え、昭和十二年七月、いよいよ日中戦争が始まりました。私は小学校五年生でした。子ども心にも大変な事態になっていることが感じられました。
日の丸の小旗を手に持って、出征する兵士を「バンザイ」「バンザイ」と見送りました。神社にお参りしては、「兵隊さんが元気に戦えますように・・・」と祈りました。
お母さんたちは「銃後の守りは私達で・・・」と“大日本国防婦人会”とかかれたタスキを白いエプロンの上からかけて、兵士たちを見送ったり、慰問袋を戦地に送ったり竹やり訓練をしたりしていました。
街の至る所に「ぜいたくは敵だ」とか「欲しがりません、勝つまでは」などのポスターがはられていました。商店からは勇ましい軍歌が流れて、国民の戦う気持ちを高揚させていました。
私たち小学生も何かお役に立ちたいと、鉄くずを集めたり、空きカンを集めたり、たばこを包んでいる銀紙を集めたりしてがんばりました。
昭和十六年四月、小学校は『国民学校』と名称をかえ、子ども達は“少国民”と呼ばれ“皇民”としての教育がすすめられていきました。以前から、どこの小学校にも校門のすぐそばに奉安殿があり、天皇・皇后の写真が教育勅語と共に収められていました。登校すると必ず奉安殿の前に「気をつけ」の姿勢で立ち、両陛下に最敬礼で朝の挨拶をして教室へ向かうきまりでした。教育勅語も四年生になると暗誦していました。授業の初めに教育勅語を暗誦することもありました。
昭和十四年四月、私は生野高等女学校に入学しました。
戦前の女子教育は『良妻賢母』を目指していましたが、戦時下の今は加えて強い女性でなければならないと銃後を守る女性として、敵の攻撃に備え竹やり訓練を受けたり薙刀の授業を受けたりしました。前線で戦っている兵士の苦労を思って、一日・十五日は日の丸弁当と決められていました。梅干しがなければ一菜だけで我慢するのです。食料が不足している中、弁当を持たせてもらえるだけでもありがたいことでした。
田植えや稲刈りの時期がくると、出征兵士のいる農家へ勤労奉仕に行きました。 慣れない手つきで田植えや稲刈りを手伝いました。「慣れない仕事なのに、ご苦労さん。」の言葉が嬉しくて、三日間を精いっぱいがんばるのでした。
日中戦争が始まった頃から、出征する兵士の武運を祈って“千人針”が贈られるようになりました。白い布に赤い糸で千個の玉結びをして腹巻にしたものです。千人の女性が一針一針に心をこめて結びました。家族の方は街頭に立って一人一人の女性にお願いしておられたのですが、女学校には二百人の生徒がいるし、私達は寅年生まれなので(寅は千里の道を行くという強い動物といわれる)一人で年の数だけ結べるといわれ、休み時間も放課後も兵士の無事を祈りながらせっせと赤い糸を結びました。
中に、五銭玉や十銭玉が布に縫いつけてあるので不思議に思って尋ねると「五銭はしせんを越える、十銭はくせんを越える」という意味だと教えてくださいました。ご家族のお気持ちを思い、ご武運を祈る心をこめて一つ一つ結びました。
女学校四年間の一番の思い出は修学旅行です。 戦時下でもあり、半ば諦めていた東京への修学旅行が実施できるとの報に大喜びしました。昭和十七年秋、二泊三日の修学旅行です。大阪を午後八時ごろの夜行列車で東京へ向かいました。リュックの中には、一人分の五合のお米を入れていました。早朝、東京駅に降り立ちました。皇居前広場に整列し、皇居に向かって最敬礼をしました。「今、東京の土を踏んでいる・・・」と思うと、胸が熱くなりました 次いで心をこめて「海行かば」を斉唱しました。
“海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ・・・”
みんな心をこめて歌い終えると胸に熱いものがこみ上げ、しばらくはみんな無言で立って心に噛み締めていました。
戦時下の修学旅行は、明治神宮、靖国神社、上野公園、美術館・・・などを巡りました。国際劇場で『歌う狸御殿』の華麗な夢のような舞台は、今も瞼の底に残っています。
昭和十八年三月「お国の為に何か役に立つ生き方をしたい」と熱い思いを胸に私達は女学校を卒業しました。
日中戦争の開戦以来、言論の取り締まりがとても厳しくなり、新聞・雑誌・ラジオ放送など当局の検閲を受け、合格したものだけが発表を許されました。ラジオ放送でも一度検閲を受けて合格した原稿は、一字一句も訂正は許されませんでした。政府を批判するような意見を述べることは全くできませんでした。
生野には“協和会館”という鉱山の立派な施設があり、そこで映画や芝居が上演されていました。二階に臨観席があって催しのある時は、二人の警察官が内容に目を光らせていました。
昭和十二年に始まった日中戦争は、初め短期決戦を見込まれていましたが、広大な中国大陸の戦線は北から南へ、奥地へと拡大していきます。日本は戦線を拡大しなければならず五十万の兵力を送っていたといわれています。ヨーロッパでは独・伊、対フランス・英・米が戦い、世界中が戦争の大きな渦の中にいました。軍の力はますます増大し、やがて陸軍大将が総理大臣になり日本は世界との対立をますます深めていきました。「日本は島国だから海の守りを固めていたら国は守れる」と考え、戦艦“大和”“武蔵”など巨大で高性能の戦艦を造って軍備を進めていきました。しかし、太平洋戦争は「空」を制する者が、戦いを制したのです。
アメリカは真珠湾で四隻の戦艦を失い、航空機の戦いを予測して増産と、改良に全力を挙げ、日本の三倍以上の生産を誇るようになっていきます。 豊かな資源を持つ巨大なアメリカは、戦略の面でも先を越していたのです。日本は国力の大きな差を考えることなく戦争に突入していきました。
昭和十六年十二月八日、真っ白な霜が田んぼをおおっていました。早朝の大本営発表に日本中が、いよいよ来るべきものが来た、と湧き立ちました。
「米・英、撃ちてし止まん」・・・闘志を燃やしました。
「本、八日未明、帝国海軍は西太平洋に於いて戦闘状態に入れり」とラジオは伝え、勇壮な軍艦マーチが国民の士気を高めるのでした。
「アメリカと戦うのだ。あの大きな国と・・・」私は気持ちの高揚を抑えきれずいつもより早く登校しました。みんな興奮していました。
「米・英、撃ちてし止まん」「がんばろうね」・・・みんなで誓い合いました。
国民はこぞって真珠湾の大きな戦果に大喜びし、「アメリカ何者ぞ!」と戦意を高揚させるのでした。真珠湾に航空母艦が一隻もいなかったという事実は国民には知らされませんでした。
開戦当初、日本軍は勝利を重ねていきました。真珠湾に次ぐマレー沖海戦でも英戦艦を航空機の攻撃で沈没させる成果をあげました。軍艦マーチと共に放送される大本営発表に国民は歓声を上げ、「米・英、撃ちてし止まん」と奮い立つのでした。
しかし、国力の差は年月の経過と共にはっきりと表れてきました。政府は、昭和十三年に 発布していた『国家総動員法』をさらに強化し、すべての国民に全力を出してがんばるよう指示しました。「進め!一億火の玉だ」・・・と。
店があっても売る品物のない商店の主人は、報国隊を組織して軍需工場で働きました。家事を手伝っていた娘さんは女子挺身隊に入って航空機工場や軍服を縫う工場などで働きました。
その頃、小学校の運動場は固い土を掘り起こして全部畑になっていました。畑の草引きをしたり、高学年は山で伐りたおしてある木を長いまま引きずって校庭の隅の炭焼き窯へ運び、炭に焼いて供出しました。老いも若きも、男子も女子も・・・国民の総力をあげて働きました。
生野小学校尋常科を卒業して高等科に進んだ生徒達ももう立派な大人です。貴重な労働力です。姫路の航空機工場で働くことになりました。朝、播但線で京口駅へ行き、工場で一日働いて夕方の列車で帰ってきます。仕事中は工員さん達と同じように神経を澄ませて一生懸命がんばります。 まさに、工場が学校でした。
都市の中学校の中には、学校の体育館など広い建物に工場の機械を設置して、学校が工場になっているところもありました。工場が学校であったり、学校が工場であったり・・・・中学生も、女学生も一般の工員と同じように一生懸命貴重な労働力としてお国のためにがんばっていました。
銃後の暮らしはどうだったでしょうか。
米の統制は厳しく、配給制で自由に米を買うことは出来ませんでした。大人一人一日二合あまりです。わずかな米の配給も遅れがちになったり、配給がなかったり・・・みんなおなかを空かせていました。お母さんは、「家族に何とか食べさせてやりたい」と必死でした。 雑穀を混ぜて炊いたり、お米に野菜を刻んで入れたり、春に新しい木の芽を摘んで入れたり・・・といろいろ考えて炊きました。芋や団子が代用食になったり、農家へお米を買いに行ったりしましたが、農家でも統制が厳しく自由に売れるお米はありませんでした。お母さんはお嫁に来るときに持ってきた大切な着物を農家の自家用のお米と交換してやっと手に入れたり・・・・と苦労しました。
家の空き地は掘り起こして畑にしていました。採れた野菜は大切な食糧でした。じゃがいもを茹でたのだけがご飯の代わりの時もたまにありましたが、贅沢は言えないと思って食べました。
そんな日々の中でも、子どもの誕生日とか何かのお祝いごとのときには、どこで手に入れたのか真っ白なお米だけのご飯をたいて「お誕生日おめでとう。元気に大きくなってね」と祝ってくれました。
「わあ!銀めしや。お母さん魔法使いやね」と大喜びで食べました。銀めしは、とてもとてもおいしかったです。
肉や野菜はたまに配給がありましたが、砂糖やお菓子は見たこともありませんでした。 お醤油は粗末なものでしたが無いよりはましと思いました。たまに油の配給があると、じゃがいもを茹でて潰し、刻んで炒めた玉葱を混ぜて肉なしコロッケを作りました。お肉はなくてもおいしくてその頃の我が家の人気メニューの一つでした。
何もかも不足していましたが、みんな分けあって暮らしていました。お母さんは、みんな同じに分けた自分の分の中から、そうっと私達姉妹に食べさせようとします。 みんな同じに分けたんだからお母さんも食べて」と言うと、「お母さんはもう大きくならなくてもいいの。あなたたちは今、大きくなる大切な時なんだから・・・」と笑って言いました。
そんなあたたかい家族の中で苦しい中にもあたたかく幸せに思い、「欲しがりません勝つまでは・・・」と元気を出すのでした。
衣料品も一人何点と決められて衣料切符がありましたが、店には商品がありませんでした。たまに商品が入っても、とても粗末な物で服に仕立てられそうにもなく、お母さんは自分の着物をほどいてモンペに仕立ててくれたり、お下がりの服の寸法を直したり・・・いろいろ工夫していました。
女学校に入学するとき制服を仕立ててもらいましたが、スフ入りの布地はなじめず、従姉から「卒業したからよかったら着て・・・」といただいた古い制服は着心地よく、ほとんどこれを着て通学したように思います。
お父さんは、国民服にゲートルを巻いて動きやすい服装。お母さんは、みんなモンペ姿でした。空襲に備えてバケツリレーの訓練をしたり、竹やりで敵を突き倒す訓練を受けたりしていましたが、実際の空襲は何百機と編隊を組んでいる飛行機から、雨のように焼夷弾が降ってくるので、身を護るのが精いっぱいで、バケツリレーも火叩き棒も何の役にも立ちませんでした。
子ども達は、防空頭巾を身につけ、身元がよく分かるように胸に住所・名前・血液型を書いた名札をつけていました。明日の日が考えられないような不安な日々の中でも、子ども達の明るく元気な姿に人々の心は安らぐのでした。
戦地で戦いに倒れた兵士たちが白木の小さい箱に入ってふるさとへ無言の帰還をされます。その数も日を追って多くなってくるのでした。「名誉の戦死」と称えられましたが、大切な人、かけがえのない人を亡くされたご家族の悲しみはどんなに大きかったことでしょう。
戦争の行く末に不安を感じながらも国民は、大本営発表を信じるしかありませんでした。 不安に思っても、それを言葉に出来ない時代でもありました。
日本の国土を守るためには、絶対防空圏を守りぬかなければなりません。南洋群島の島々は最重要な地でもあり、死守しなければなりませんでした。住民たちも守り抜かれるものと信じていました。
しかし海軍は、ミッドウェイ海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と敗戦を重ね、南洋の島々も米軍の占領下になりました。
空も海もアメリカの勢力下になり、日本の国土は連日空襲されるようになりました。マリアナ諸島を出撃の拠点に爆撃を受けた都市は200を超え、空襲による犠牲者は50万人に達するといわれています。
空襲警報のサイレンが不気味に鳴り響くと明かりが洩れないように黒いカーテンを閉め、黒い布をかけた電灯を低くして、その下に家族が集まりラジオの放送に耳を傾けます。
何百機もが編隊を組んで・・・という放送に胸がいたみます。 焰に包まれた市街を思うといたたまれない気持ちになります。「どんなに恐ろしい思いをしておられるのだろう」「どうか被害の少ないように・・・」と祈りましたが大きな街は焼き尽くされ、市民は焔に追われて逃げまどい、広場や川に逃げましたが、一夜明けると、たくさんの死者が空襲の恐ろしさを物語っていました。
昭和二十年、三月十日の東京大空襲では、一夜のうちに十万人の死者が伝えられています。空襲の恐ろしさや食べ物のないひもじさに、明日を考えられない不安の日々でしたがそれでもみんなは勝つことを信じるようにがんばるのでした。
大きな都市の空襲から子ども達を何とか守りたい・・・と、地方に親戚のある子どもは疎開させていましたが、どうしても疎開先のない子どもは学校単位で教師が引率して地方のお寺などに集団疎開することになりました。三年生以上の子どもです。温かい両親のそばを離れて、見知らぬ土地へ行くのはどんなに心細く不安だったことでしょう。疎開の子だからと特別に配給がある訳でなく、みんなおなかを空かせていました。
田舎の人達の中には子どもたちを不憫に思って、畑で採れた芋や野菜を「子どもさん達へ・・・」と届けてくださることもあり、とてもありがたかったと寮母をしておられた方に聞きました。
山口小学校の近くの線路を二人の子どもが歩いているのを田んぼから見つけられたお母さんは、びっくりして大急ぎで線路に駆けつけ、二人を下の道へ降ろしました。
「あぶないよ。汽車が来たら轢かれて死んでしまうよ」と話されると二人は、
「この線路は歩いたら姫路へ続いているんでしょう。線路を通って神戸へ帰りたい。お母さんの所へ帰りたい・・・」と泣きながら話したそうです。「小さい子どもさんの淋しい気もちを思うと不憫で、思いきり抱きしめてあげました」と話されたことを聞きました。子どもたちにとって、家ほど安心な所はないのですね。
また、あるお母さんは、炒った豆をお手玉の中に入れて、
「どうしても我慢のできないほどおなかが空いたらお手玉をほどいて中の大豆をおあがりなさい。大豆は炒ってあるから・・・」と書いて送られたことを聞きました。お母さんは、配給の大切な大豆を子どもさんへ、すぐ食べられるように炒って・・・あたたかい親心を感じました。
大学生は二十才の微兵年令になっても微兵が延期されていました。勉強に専念するためです。しかし、国を守るためにどうしても若い力が必要になり出兵することになりました。“学徒出陣”です。ペンを銃に持ちかえて、決意を胸に出陣して行きました。出陣式はあいにくの雨になりましたが、学徒達は堂々と行進し出陣しました。
学習の場を工場に移して、若い力のすべてを兵器増産に結集させてがんばっている中学生の中には、「自分の命を捨ててでも国を守りたい」と航空兵を志願する生徒が増えてきました。 中学卒業を待たず“予科練習生”として訓練を重ねていきました。一機一艦を目指しての体当たり攻撃で成果をあげました。『神風特別攻撃隊』の名と共にその働きは国民の心に強く刻まれています。若くして命を捧げた多くの人々のことを忘れてはならないと思います。
絶対防空圏だけでなく制海権もアメリカに奪われ、食糧・弾薬・燃料など全ての補給を断たれた日本軍は各地で孤立していきました。行軍を続けている中、病気に倒れたり、飢えのために命を失うなどで全滅した部隊もありました。戦友たちの屍を越えて行軍を続ける兵士達はどんなにつらいことだったろうと思います。
戦わずして飢えで命を落とした兵士たちはどんなに無念だったことでしょう。しかし、国民には何一つ知らされることなく、新聞には「転進した」とのみ報じられました。
四月になると米軍はいよいよ沖縄上陸作戦を開始しました。物・量を誇る米軍は、艦砲射撃などによる集中砲火を浴びせます。沖縄目指して戦艦大和は出撃しましたが、鹿児島沖で米軍の攻撃を受け沈没し、巨艦は戦うことなく姿を消したのです。
島民たちは兵士たちと共に沖縄を死守しようと、勇ましく戦いました。大きな洞窟の中に潜んだり、勇敢にも米軍と戦ったり激しい戦いが続きました。中学生も女学生も必死で戦いました。女学生たちの健気な活躍は「ひめゆり部隊」の名と共に後世に伝えられています。
全島挙げて戦いましたが島民・兵士たちの戦死者は数知れず、集団自決した島民も多く六月末ついに沖縄は米軍に占領されました。沖縄島民二十万人が犠牲になったといわれています。沖縄占領によって、本土空襲はますます激しさを加えていきました。
八月六日朝、一発の爆弾が広島上空で炸裂しました。その一発の原子爆弾によって、広島市街のほとんどが全滅し、何万人という被害が出ました。焼けただれた人の群れ、まさに地獄さながらの広島になりました。
その日生き残った人々も後々まで原爆病に苦しみ多くの人々が亡くなりました。私達は原爆の実態を知ることもなく、九日には、長崎にも同じ爆弾が投下され広島と同じような被害が出ましたが、新聞には「新型爆弾が投下された」とだけ報道されました。
「新型爆弾」って何だろう。どんな威力をもっているのだろう…と不安を抱きながらもそれでも勝つことを信じていました。
どこまでも本土決戦にもちこみ、「最後の一兵になるまで戦う」と強硬姿勢をかえない陸軍。しかし、広島長崎に落とされた原子爆弾の凄まじい威力に日本政府はポツダム宣言を受け入れようとしました。・・・その日、ソ連が突然、樺太、ソ連国境に攻めこんできました。日ソ不可侵条約を破ったのです。日本政府は全く予期しない出来事でした。樺太、満州に住んでいた日本人は多数の犠牲者を出し、大きな被害を受け、命がけの逃避行を続けました。
これ以上戦いを続けることは日本民族を滅亡されることになる・・・と天皇陛下のご聖断によって、ポツダム宣言を受け入れることになりました。軍人、民間人、何百万人という犠牲を出しての終戦でした。
八月十五日、正午「重大な放送があるので、ラジオを聞くように・・・」と知らされました。お盆の日でした。
みんなラジオの前に集まって正午の放送を待ちました。しかし、雑音が多くて聞きとれませんでした。しかし、誰からともなく「戦争が終わったんやな」「負けたんやな」・・・という声があがりました。
戦争の現実を知らされないまま勝つことだけを信じ、願って、本土決戦まで覚悟して戦い抜こうとしたのにと呆然としました。どんなにひもじくても、物がなくて不自由でも我慢を重ね、「欲しがりません、勝つまでは」とがんばってきたのは何だったのだろう・・・と悔しさがこみ上げてきます。戦死した人の無念さや大切な人を失った悲しみを思うとたまらない気持ちになりました。
また、アメリカに占領されて日本はどんなになるんだろう・・・と不安が胸にこみあげてきます。やがて迎える二学期にわたしは子どもたちにどう向きあっていけばいいのでしょうか・・・わかりませんでした。
その夜、久しぶりに電灯の黒いカバーを外しました。電灯の明るく眩しかったこと。 今もはっきり覚えています。「これが平和というものなんだ・・・」と心に深く刻みました。
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終戦から七十九年が過ぎました。
何もかも焼け落ちて瓦礫の山だった都市は立派に復興し、高層ビルが建ち並んでいます。新幹線、高速道路も日本全土に延び日本は経済大国に成長しました。戦後二回東京オリンピックを開催し、国際社会でも活躍していることを誇りに思います。
しかし戦後のこの年月の間に世界では紛争が絶たえません。朝鮮戦争・ベトナム戦戦争・湾岸戦争・イラク戦争・・・そして、現在はロシア・ウクライナによる戦争が二年以上も続き、泥沼のような状態になっています。ガザ・イスラエルの紛争も悪化の一途を辿っているようです。北朝鮮のミサイル発射など国際社会の平和を脅かされる状態が続いています。戦争は決して起こしてはならないのです。国や国民を守り、平和な世界を築くには、何よりも対話が大切だと思います。
被爆国日本、敗戦国日本だからこそ選べる道で世界の平和を考えなければなりません。みなさんも真剣に「平和」を考えてみましょう。
二〇二四年・九月