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感覚の共有と齟齬 〜共感する時、私たちは自分の過去と共感してる〜


※しちめんどくさいことを人間観察と理解のために書いております※

昨日、旦那さんとごはんを食べながら、私たちは感覚を共有するっていうことって実は不可能だよねって話をしてて。

目の前にポン酢の蓋の緑があって(焼き魚でした)

「この緑がどんな緑に見えているか【お互いが認識している緑】を知るのって不可能だよね」って。

よくよく見回したら昨日の食卓は

イッタラの緑のお皿
きゅうりの緑
わかめの緑
キャベツの緑
枝豆の緑
日本酒の瓶の緑
ポン酢の瓶の緑

緑だらけだったんだけどw


カラー名とコードで言うなら

オリーブグリーンの#5f6527
クロムグリーンの#00533f
ボトルグリーンの#004d25
ホワイトリリーの#f0f6da
フォレストグリーンの#228b22
コバルトグリーンの#3cb37a
黄緑の#00ff00

みたいなね。

このそれぞれの緑がどんな色に見えてるか、何色として捉えているか

「みんなが同じ緑色として見てるなんてことは
どうやったって確かめようがない」

ただ、ざっくりとした、蓬色からエメラルドグリーン、パステルグリーンまでの「ざっくり緑」という枠組みに入っているだけ

(それにこれだって、私の記憶の色合いと実物の色を比べたらきっと違うだろう)

それって、色だけじゃなくて

感覚とか、世界の捉え方だってそう。


だから


共感してるって、実は、ない。


共感しているようで、自分の過去の体験を想像の中で「追体験」していて

きっとこう、って「想像してるだけ」なんだよね。

誰かと共感し合おうとした時、

私たちは、

自分の過去と、共感している。と言った方が正しいのかもしれない


あなたには、どんなブルーが写っているでしょうか


「でも、その色の違い、世界の捉え方の違いを理解し合えるのが「写真」かもしれないって思ったりするんだよね」って話してたんですよ。

同じ場所にいて
同じ人やものを見ているのに

同じブランドの
同じ機種のカメラで撮っているのに

現像された写真の色合いは実にさまざま。

同じ世界にいたはずのそれぞれの表現色は別物で

色だけではなくて、構図や、切り取る表情も、風情も違う


それを見た時に初めて

写した人の

感度や世界の見方

自分とはこんなにも違ってるんだということ

あなたの世界はこんなふうに見えてるんだね、がわかる


(とは言えその認識だって、私の目と脳がとらえたわたし色に変換されているのだろうけれどもw)


自分にしか感じられないことを

どこまでも自分が感じた色や構図でこだわって表してゆくから

私と言う人の感じ方、その個性が

ただなんとなく感じ取って察していた時よりも、具体的になって伝えることが、できるんだよねと

それは

「嬉しい!」と言う一言を言葉にして

「うんうん、嬉しいよねー♩」と言う相槌では

到底、感じあえない彩。



一方

言葉、になると

私にとっては気づきと愛と感謝を伝えたくて、相手を大切にしたいがために選んだ言葉が

受け取る側にとっては愛と感謝を奪う、大切にされたなんて思えない裏切りの言葉として伝わってしまう時も、ある。

言葉は
相手とのコミュニケーションを可能にする、人間に与えられた素晴らしく万能なツールの一つだけれど

「なぜ、この人はこの言葉を選んだのか」

「なぜ、この人はこの言葉をそう捉えたのか」


実は言葉は上澄で

上澄の言葉の、「その下層」が、その下層をどこまで汲めるかが
実は最も大切な本質的な部分だったりする

(突き詰めていくと愛しているし、愛されたいってとこになるだろう)

でもさ

毎日話すその一言一言を

「ところであなた様のがその言葉を選んだ背景にはどんなストーリーがあるんでしょうか」

なんてしてたら、ほんと、時間足りないし

(それを説明する言葉の背景もあるわけでエンドレス背景探しw)

そんなところで時間使ってたら、やりたいことに割ける時間もエネルギーもなくなっちゃうわけで

だから私たちは

なんとなく共有しあえてる
なんとなく共感しあえてる

なんとなく
雰囲気で
ざっくりと

き っ と

分かり合えてる
疎通ができている 「だろう」
 と言う

前提のもとで、

よくよく考えてみると

恐ろしいほどの儚げの中で日常のコミュニケーションを成り立たせているのよね。

そうして

分かり合えてると言う、安心を得ようとしている。

そして

ひととき、おもてたんとちがう!となると

「あの人とは相容れない」
「がっかりした」
「信じられない」
「なんでそう言うこと言うの?!」

に、発展しちゃう。

分かり合えている、と儚い期待を信じたばかりに。

だからやっぱり

なぜ、そう伝えようと思ったのか
なぜ、そう感じたのか
そこには、何があるのか

お互いの背景を理解しようとする姿勢がきっと大切


私たちは誰もがきっと
愛したくて愛されたくて

その言葉を
儚いコミュニケーションを
選んでいるんだ、っていう

言葉そのものを超越したところの「何か」を信じて、相手とかかあり合う姿勢を持てるかどうか

そこから、

抽象度を下げながら
わかり合おうとするためのコミュニケーションをしていくことが、とってもとっても大切なんでしょうね。


だから

写真と言葉の組み合わせって、伝えるコミュニケーションとして最強なんじゃないか、ってこと。

その表現を

どこまでも自分にピッタリに近づけていく「表現への真摯さ」があればあるほど

誰かに伝え
誰かに伝わる、と言うことが
きっと、可能になっていくんだろうなぁ


な〜〜〜んてことを、ここ最近のいろんなところから、感じておりますです。


めんどくさいでしょ。笑
こう言うことをしょっちゅう、あーだこーだ、って考えたり、想像しているのです。 

それが、My デフォルト。


自分表現を、自分の心のフィット感に忠実になって、こだわり抜く。

自分との共感力の高さこそが、コミュニケーション能力の高さ、ですね。


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