2024-03:「思」まとめ
3月にした思案、思想っぽいもの2つを纏めています。
それでは、行ってみヨーカドー
森博嗣がある小説の中で「靴下を全て同じものを買っておけば、洗濯後にペアにする必要が無いし、どちらか穴が空いても、もう片方はまだ使える」ということを書いていた。
めちゃくちゃ効率的で良いと思ったので、実際に黒の無地の靴下を大量に買い、同じことをしている。しかし、偶に、所謂オシャレってやつをしたくなることがある。そういう時に、黒の無地の靴下しか無いというのは味気ない。
そこで、リバーシブルの靴下というのはどうだろうか。表面は黒の無地、裏面は色や柄が入ってる靴下である。普段は黒の無地の方を前述の通りに使用し、オシャレしたい日だけ裏面の色や柄がペアのものを探す使い方ができる。どうかな、靴下屋さん。
-----
定期的にSNSで「〇〇を学校教育でやる必要など無い」という議題が上がる。今回はそれが古文であった。この手の話は、おそらく、話し手がその教科の知識を社会に出てから使わなかったためになされる。
こういうことを言う人間は「将来、役に立つから」という理由で勉強してきたのだろう。役に立つから勉強する、役に立たないことなら無駄と切り捨てて勉強しない。ならば、衣食住を確保する方法だけを勉強するのが良い。そうすれば、原始人のような一切無駄の無い生活ができる。
勉強という行為は、役に立つからやるのではない。絶望するためにやるのだ。自分は世界で起きている様々なことの中の、ほんの一部しか知らない、これっぽっちも理解していない、理解できない、それを感じて絶望するために。
この森羅万象に対する自分の無知から来る絶望感は勉強する事でしか得られない。自分がどれだけ無知で無力であるということを、頭で理解しているだけではダメなのだ。勉強して、勉強して、体感せねばならない。
だからこそ、教育現場でなされる勉強の内容は絶望に繋がるものでなければならない。古文はまさにそうだ。どんなに勉強して、ある時代の文が読めるようになっても、では更に古い時代の文は?あるいはその時代に使われていた言葉の活用形は?と、無限に広がる無知が待っている。その他の教科もそれは同じだ。数学も理科も社会も英語(他の外国語でも良いが)も、突き詰めて勉強していけば自分の無知や無力に対する絶望にたどり着く。
「〇〇を無くして、その代わりに確定申告のやり方を学校で教えるべきだ」などと言う者がいるが、確定申告を極めたところで絶望にはたどり着かない。だから学校で確定申告のやり方など教えないのだ。
人間は愚かである。過ちを犯し、それを繰り返す生き物である。過ちは想像力の欠如から生まれる。無知・無力への絶望は想像力を育む。知らないことが膨大にある、理解できないことが無限にある、それに絶望する、想像するしかない。「自分の無知や無力に対する絶望から生まれる想像力」は、過ちを繰り返す悲しい人間の習性に抵抗する唯一のものである。
以上、思案と思想でした。
皆んなも思想や思想や思考を書いて公開してくださいね。
では
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?