ロマンポルノ無能助監督日記/第1回・[8ミリ映写機を自転車に積んで助監督面接試験に行く]
今から42年前・・・
1978年2月21日、22歳の僕は、三鷹の上連雀から調布の日活撮影所に向かって自転車をかっとばしている。
ハラハラしてる。
ドキドキしてる。
日活助監督試験の2次試験、面接だ。
「三鷹通り」ほぼ一本道で、自宅から30分で行ける。
一次の筆記試験も自転車で行ったが、ちょっと道に迷って焦った。
(前の日も自転車使って、場所を確認したのに)
深大寺の坂は“下り”だから、スピードアップして、風を顔に受けるのが、冷たいけど気持ちいい。
その風で、少し、ハラハラドキドキがおさまる。
荷台に8ミリ映写機・SH10を、金具付きゴム紐で二重に巻きつけている。
これは最高機種だからデカいのだ。30cm×20cm×50cmくらい。
箱形式で、二つに開くと、片方がスピーカーになる。
だから結構、重い。
後輪の荷台がガタガタ揺れて、走行も不安定になっている。
慎重にブレーキをかけながら走らないと、危ない。
かなりボロい自転車・・・でも愛車。
高校の入学祝いに親から1万5千円で買ってもらって、7年間乗ってる。
三鷹高校にも、小金井の学芸大にもこれで通学していた。
いつも、なにか考えながら漕いでいる。
高校一年の時は、藤岡弘で「仮面ライダー」が始まった時だったから、頭の中で「♪かめ〜んライダ、かめ〜んライダー・・」と歌いながら崖みたいに傾斜したところをわざと走って、そのつもりになっていた・・・
きみ、幼稚ね。
今日の面接会場では、自作の8ミリ映画を上映してやろうと考えていた。
3分間の短編だ。タイトルは『変身』
ある朝、目が覚めたら女になっていた・・・
目覚めて起き上がってフレームインする女の子に男のナレーションがカブる。
「朝起きたら、いつも立っているものが立っていなかった。立っていないどころか、それは無かった!」
この日のために作ったわけではないが、今年になってから作り、こういうこともあるかも知れない、このくらいの映画作りが出来るのを、日活の人に見せられると思っていた。
自信があったわけじゃないが。
高校一年の時から、毎年一本、8ミリ映画を作って来た、という自負みたいなものがあった・・・
なんつーか、“プロ意識”みたいなものが・・・プロじゃないのに。
映画監督になりたい。
才能があるか無いか、自分じゃ分からないが、少しは何かあるはずだ、プロが見れば分かるんじゃないか、なんて、思っていた。
映画監督になりたい。
「目立てば勝つ」という本を、前に読んでいた。
「赤旗戦略」を1973年に出した永田久光の最後の本だ。
今から思うと、「目立てば勝つ」という本が売れた時代だったんだな、と思う。なにかが常に成長して、未来に向かっている時代・・・
目立つと思って、今日着ているジャンパーは赤。
・・・てゆうか、これしか最近着てない。
なんとか目立って試験官の目に留まりたい。
定員は2。
2次の受験者は20人。
僕の番号は8。
260人だか受けたらしい1次には受かった。
1月21日のことだ。
後にインタビューなどでは、「300人中2人の合格だった」と言いふらしてきてるが、正確には260人だったと思う。
“社会常識”問題が意外に簡単だった。
連立2次方程式が出たのは良く覚えている。
中学2年レベルだが、忘れてる文化系大学生は多い。
学芸大学、小学校教員養成課程に通っている僕にとっては、完全には忘れていないものだった。
でも、採点のメインは作文だったろう。
題は「口紅」で、60分で400字詰め二枚を書いた。
「口紅を塗る女が、鏡に向かうとき、男の目は気にしていない、挑戦的な顔をしている」
って、書き出した記憶がある。それ以上は思い出せない。悪く無いと思うが。
42年前なんで・・・
前年の秋に受けた松竹や、記念受験のNHKの方が難しかった。
松竹は千人受けたと新聞に報道されていた。
試験会場は乃木坂。
「未来の山田洋次を目指して」という新聞の見出しを覚えている。
一次で落ちた。
東宝には、日比谷に会社訪問に行って、5、6人で集団討論させられた。
当時公開された三浦友和主演の『星と嵐』について話した奴がいた。
見てなかった・・・
帰り際に、「金子さんの大学は指定校ではありませんので、どなたか推薦者が必要です」と言われた。
つまり、門前払い。
日活一次試験の時、『星と嵐』を話した奴を見かけた。
人生で2回しか見かけてないが、顔つきが忘れられない。
東映には電話をかけたが、新規採用していない、という返事だった。
他にも「プロダクション鷹」とか、電話帳で調べて電話したら、そんなことはやってない、という返事だった。
「プロダクション鷹」がピンク映画のプロダクションだとは、後から知った。
電話帳に、映画プロダクションとだけ載っていたから。
映画監督になりたい・・・
当時、学芸大学は、90%以上が教員になっていた(というのは記憶なんで確かめてないが)。
普通の学生は、去年の夏に都道府県の教員採用試験を受けておいて、今年春先に任地が決まる。だから、この時期、クラスメートたち(全員女子)は卒業後のことは決まっている。
僕は、その採用試験を受けなかった。
教師になる気がなかったから。映画監督になりたかったから。
親父は呆れていた。
教師になるもんだと思っていたので、秋頃になって「お前、採用試験てあるんだろ」と聞いてきた時には、「受けなかったよ」と話したら、絶句していた。
父は息子が並で無い映画好きだということは知っていた。
「オタク」という言葉はまだ無いから「映画キチガイ」と呼んでいた。
「うちの息子は映画キチガイなんだ」と職場で嬉しそうに喋ったらしい。
そうしたら「最近の若い奴はみんな映画キチガイだよ」と言われたそうだ。
スピルバーグが『JAWS』を27歳で撮って世界的大ヒットになったのは3年前だ。ニューシネマの後、ハリウッド大作が復活して、若い監督が次々生まれ、ハリウッド第9世代とか言われていた。
だが、日本映画はずっと“斜陽”だと言われていた。
なんか、物心ついた時から映画=斜陽産業と呼ばれていたと思う。
30歳の長谷川和彦が『青春の殺人者』でデビューしたのは1976年で2年前。
日本映画で三十代の新人監督がデビューするのは、相当に久しぶりだった。
長谷川和彦は、ショーケン(萩原健一)主演で神代辰巳監督『青春の蹉跌』(74 )の脚本を書いている。あの映画にはシビれていた。カッコよかった。
「ゴジ」というあだ名さえ知られている長谷川和彦は、僕ら映画青年のスターで、東大中退して今村昌平監督の『神々の深き欲望』の助監督になって、「奴隷のように働かされた」というのはキネマ旬報のインタビューで読んでいたが、もともとロマンポルノの現場にいて、日活から追い出されるように去ったという経緯までは、この時の僕は知らない。
助監督になってから、先輩から聞くことになる。
数々の“ゴジ伝説”を・・・
日活ロマンポルノ自体、それまで3本しか見たことが無かった。
神代辰巳監督『四畳半襖の裏張り』林功監督『禁断・制服の悶え』を去年、池袋文芸座で見て、田中登監督『女教師』を三鷹文化で見ただけだった。
だいたい、セックスということ自体・・・去年の夏に1回しか経験したことがない。
・・・バラしても、べつにいいか・・・
22歳の夏が初。
思春期の頃から、凄イイ〜ものだという情報は頭の中に溢れまくって、欲望もパンパンになっていたのに、実際には想像のようには上手くいかず、焦りながらも妙に自分を観察してしまって、日活ロマンポルノに似てるよな、と思ったり・・・
ロマンポルノを見た時も、こんなに腰を動かすものなのか、滑稽じゃんと思った。
まあ、それは、それとして・・・
監督になるには助監督の修行からという道筋を考えると、ロマンポルノの日活しか無い、日活の助監督になれなかったら、どこかのプロダクションを探してもぐり込むしかないだろう、アルバイトで。
去年、大林宣彦監督が『HOUSE』でデビューして面白かったが、助監督経験は無くて、チャールズ・ブロンソンのマンダムなどのCM監督から映画への道だったので、これは自分の参考にはならない。
8ミリ映画などの自主制作から商業映画の監督になる、という“道筋”が言われ出した頃だが、自分のなかでは、具体的にイメージ出来ない。
「ぴあ」が応募を始めたのがこの年くらいだったろう。
確か、3本くらい送って、入賞したんじゃないかなぁ・・
もっと前だったか・・忘れている。
日活が助監督を募集している、というのを年明けて知ったのはニュースだった。
受かれば監督への道筋が見える。
1月21日なんて日に入社試験をやる会社は、この時代でも極めて珍しい。
日活くらいのものだったのではないか。一応、一部上場の株式会社だ。
2月8日に一次合格の通知が来た。
「8番」の受験番号は、試験の点数順だった、というのは後から聞いた。
後に日活の企画者になった東大の山田耕大は「3番」だった。
山田は『卒業旅行ニホンから来ました』のプロデューサーになって、脚本家になって『クロスファイア』の脚本を手伝ってくれた。
だが・・・
2月16日に学生課から電話が来た。
つめた〜い声で、
「○○学がDなので、あなた卒業出来ませんよ」
Dは失格の意味。ギリギリで単位取ってたので、卒業単位が足らない。
卒業出来ないと、日活の入社試験受かっても採用にならない・・・
○○学は1年で取れず、2年でも取れず、これが3度目だった。
すぐに、○○学の先生に電話して叱られて「泣いた」とビジネスダイアリーに書いてある。
恥ずかしいが、泣いたんだな・・これもバラしても、もう、いいや。
おれは、あの時泣いたんだ、メソメソと・・・
そして映像芸術研究会の顧問の桑原先生に電話して、「なんとかなりそうだ」と言われて、その晩、担任教官の山田有策先生の小金井の自宅に、これも自転車で行って相談している。
「とにかくレポートを書け」と言われた。
翌日は1学年下のカノジョに○○学のノートを調達してもらった。
(カノジョとはそういうことはしていない)(そういうことはさせないカノジョ)
(この時代、そういう関係も多かった)(というか、そっちの方が多かった)
(つまり1回の人は、その1回だけの人)(そこまでバラさなくても)
翌々日は、桑原先生は「どうもだめそうだ」と電話して来た。
20日の日は、バイトの家庭教師を断って、1日レポートを書いていた。
そして、2/21、この日の面接となる。
翌22日には、○○学の先生が顧問を務めている浜松町の会社に行って面談してレポートを提出することになっていた。
だから、実は、面接の時には、「大学卒業見込み」という受験資格は、無かったのだ。
このあと、2/25に卒業が決まり、卒業者名簿には、追加で名前がボールペンで書かれた。
2/27に日活から健康診断の通知が来た。
合格という意味だが、健康診断の結果で、最終決定。
3/2に健診に行き、正式な採用通知は3/13に届く。
2/26に、山田有策先生の自宅に伺って「5歳の娘の明日香ちゃんと花札をした」とダイアリーに書かれてある。
お礼に行ったわけだが、何も持って行かなかったのではないか。
金品でお礼する、という発想が金子家には無かったから。でも、さすがにお菓子くらい、持って行かせたかな、親は・・・
山田先生は東大全共闘で活動されていた方で、○○先生をちょっと脅してくれたらしい。
「学芸大から、日活の助監督に合格するなんて前代未聞だ。あんた、この若者の将来を潰す気か」
と・・・
でも、それは後から分かる話で、5日前のこの日は卒業も分かって無いのに、面接で8ミリ映画を見せようと自転車を懸命に漕いでいるのであった。
面接会場の廊下に20人の席がある。1番から呼ばれている。
皆、スーツ姿。赤いジャンパーを着る発想なんて誰にも無いだろうが、誰も僕を見たりしない。見てるのかも分からないが、誰とも目が合わない。東宝の時の『星と嵐』の奴はいない。1次で落ちたな・・・
話す者は誰もいない。
3番の山田耕大は、トレンチコートを着ていて、妙にうらぶれてカッコ良かった。
後で聞いたら、去年も受験して、「助監督に向いてないから営業で採りたい」と言われたのを断って、また今年も助監督試験を受けに来た、ということだった。
結局、彼は、今年も助監督にはなれず、営業で採用されて企画部員になる。
そのことは、彼の著書「昼下がりの青春」に詳しい。
まわりは、みんなライバル。
ライバルと言えば、権威ある映画脚本賞「城戸賞」を、去年獲った大阪の医学生で25歳の大森一樹が、受賞作品『オレンジロード急行』を、松竹で、助監督の経験なくて現在、監督している最中で、ゴールデンウイークに公開される、という話題は知っていた。
当然、ジリジリと嫉妬している。
話題になっていた16ミリの『暗くなるまで待てない』は池袋文芸坐で見たが、何これ?大したことないじゃん、と思っていた。
8番の僕が呼ばれた。
SH-10を持って会場に入る。
7、8人の面接官が並んでいる。
中央に小柄な村上覚社長。右の端まで行かないところに田中登監督がいたのを良く覚えている。
それとはべつに、アッと思って、焦った!
会場が明るくて、暗幕も無い!
これでは映写しても、スクリーンは見えないじゃないか・・・
だいたい、スクリーンになるようなものも、持って来てないだろ。
どこに写すつもりだったんだ、おれ・・・
やっぱり、ダンドリがどこか抜けている。
助監督には向いてない。
どうするんだ・・・
・・・・・to be continued
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