ロマンポルノ無能助監督日記・第27回[池田敏春さんの言葉聞き『聖子の太股』書いて家を出る?]
「これからはビデオの時代だ。映画はもう終わりだよ」と啖呵きった撮影所制作調整課長・◯崎恒夫氏の陣頭指揮で始まったエロビデオプロジェクト・・・
僕は30分の『セクシー・マリンブルー』をパラオで撮り不評、やはり30分モノのシナリオ『誘惑されて』を4期先輩の池田敏春さんの為に書いたが、「ここで脱ぐなんてゼンゼン聞いてないわよ、話が違うわ」と、夏木マリがセットから帰ってしまったことで、その作品は潰れた。
新宿中央公園で30人のダンサーを踊らせるという1日がかりのシーンは、全くの無駄になった。
(夏木さんには何の責任も無い。松崎氏の交渉ミスであろう)(松崎氏はプロデューサーやったこと無いし)
池田敏春さんは前年80年倉吉朝子主演『スケバンマフィア 肉刑 リンチ』で29歳で監督デビューしており、僕は、それを見てこの監督凄い!と思っていて、心の中では尊敬しており、根岸さんより上だろ日活の若手ナンバーワンだ!と思っていたが、それを言っても素直に受け取るような感じの人では無かったので、本人には「面白かったです」くらいしか言ってなかった。
ラストシーン、倉吉朝子が海岸でクラウチングスタートでヨーイドン!をして走る明るいスローモーションに熱く共感していたんだが・・・
この3年後ATGで、白都真里の海女が銛振り回して原発に殴り込みをかける『人魚伝説』(84年)を撮り、その25年後映画のロケ地である三重県・志摩の冬の海に素っ裸で飛び込み自殺した(2010年12月59歳)。
どことなく怖くて面倒臭い人だった。
だが、インテリヤクザぽくてカッコも良かった。
小柄で短髪、ちょっと足を引きずって歩く。
一度、俺むかし鉄道自殺しかけて片足先を切って無いんだよ、というようなことを本人が言っていた。
日活には親戚のコネで入ったんだ、とも言っていた。
大プロデューサー・岡田裕さんにも、ゴールデン街で絡み酒でしつこくしているところを見たことがある。
「なんとか言ってみろよ、岡田裕ぁ」
というような口調が怖い。
その池田さんと、やはりゴールデン街で飲んでいる時、
「金子おオマエいくつだ、26? まだ実家にいるって、それでオマエ監督になれると思ってるのか」
と言われて、はあ・・と口ごもった。
「冬の寒い日にな、アパートで風呂洗って入るんだよ。そんな経験もないでさ、監督なんかになれないだろうが」
風呂を洗うのと監督になることの関係ってなんですか、という口答えはせず、やはり曖昧にうなづいていた。
26歳で、まだ実家住まいしてる、というコンプレックスは確かにあった。
先輩たちは、皆独立して一人で暮らしている。
那須さんは真知子さんと暮らしている。同期の瀬川も結婚するらしい。
一期後輩の金澤・池田の二人も日活寮に住んでいる。
ただ、言い訳は、東京生まれ東京育ちで家に自分の部屋があって職場に近ければ(バイクで15分)、出てゆく理由が無い、ということだった。
家が裕福だった訳では無い。
長崎の三菱造船の労働組合が東京に持っている組合社宅を、労働運動つながりで、極めて安く借りている。
6畳・4畳半・3畳・台所・風呂・トイレ・押入れ・縁側庭付き一軒家・三鷹から歩いて20分が15000円。
同じ作りの家が6軒あり、僕が大学2年になった年に、一軒出て行って空いたので、弟と二人のための家としてもう一軒借りていた。
つまり、80坪の敷地内に3万円で2軒家を借りている訳だ。かなりボロいが。
6軒とも、三菱造船とは直接関係無い人が借りている状態。
わざわざ出る理由ないでしょう。家に5万入れてるし。
更に言えば、僕には“親への反抗期”というものが無かった。
親たちが世の中に反抗してるから、子供は反抗せず味方して育ったのが金子家。
小学校1年くらいだったか・・・
「なんでウチは貧乏なの?」と父に聞いたら・・
あ、その頃は初台で、3畳と4畳半二間のトタン屋根の崖下家に四人住んでいたから“貧乏感”強かった。
父は、グラフを描いた。
世の中は不公平で、多く儲けている人はいるが数が少ない、でも一生懸命働いても少ししか儲けられない貧乏な人が沢山いる。それをみんな平等にするために、お父さんたちは頑張っているんだよ。正しいことをしているから貧乏なんだ。
良く分かった。
小学校4年で、その父が「アメリカはベトナムから出て行け」という反戦ゼッケンを付けて出勤し出し、僕は母と共に「頑張って」とにこやかに言って送り出して応援した。意味は良く分かっていたから、恥ずかしいとか思ったことは無い。
高校2年まで8年間続いた。
両親ともインテリで優しく、生意気な事ばかり言う子供の人格を認めている人たちだった。
反抗期になる理由が無い。
ただ、気づくと、この育ちでは“モテる理由”も無いですね・・・貧乏なのにお坊ちゃん育ち、というキャラクター。
マザコンという訳では無いが、切り絵作家の母を誇りに思いながら、ご飯を作って貰って、描いたマンガや小説を読んでもらっていた訳だから。
・・・やっぱりマザコンのカテゴリー?ちがうだろ。
描いたマンガに「あんたの絵はデッサンが狂ってる」て言うし、小説には「なんにも分かってないって感じね」て言うし、8ミリ映画には「修ちゃんの学園日記みたいなものね」て言うし。
女子を家に連れ込んで何かすることも出来ないから“やっぱり家出なくては欲求”が次第に大きくなって来ていた頃でもあり・・・
なので、池田さんの言葉は強烈に心に響いたので、今でも生々しく思い出す。
また、池田さんはブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』を30回見たと言っていた。劇場で、でしかあり得ない時代。
僕は2回だけだったが、ミステリアスな美術館のシーンのコンテは暗記したい、いつかテレビ放送したらビデオに録画して暗記しよう、と思っていたくらいだった。
その池田さんと『エイリアン』の話になって、エイリアンは常に左から襲ってくる、と言っていた。
人間は心臓が左にあるから、左から襲われる方が怖いという池田さんの分析だった。
これが、『ガメラ』の時に思い出され、ギャオスが左から中山忍を襲撃するというコンテに応用した。
池田さんとは、中途半端な仕事でしか関わっていないが、結構影響受けてるよな・・・合掌。
そして、「聖子の太股」のシナリオだが・・・
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