ロマンポルノ無能助監督日記・第9回[石井聰亙・澤田幸弘監督『高校大パニック』]

入社2年前の1976年、漫画を原作にして比較的安上がりに作ったコメディ、
曽根中生監督『嗚呼、花の応援団』が思わぬ大ヒットになったので、日活としてはロマンポルノをやりながらも、年に一回か二回は(成人では無い)一般映画の番組で勝負する、という方針が生まれていた。

77年は加藤彰監督『野球狂の詩』と、曽根中生監督『嗚呼、花の応援団・男涙の親衛隊』の一般映画二本立てが春休みに公開され、まだ日活に入れるとは思ってもいない大学の時に見ていた。
マンガ原作の『野球狂の詩』は、少女がプロ野球ピッチャーになる話で、主人公・水原勇気=木之内みどりの投球フォームは可愛らしく胸キュンとなったが、日本映画ファン以外には話題は広がらず、相当な不入りであった。

しかし、だいたい、この頃と言えば、日本映画のほとんどが不入りであった。
『八甲田山』のような大作とか、『人間の証明』のような角川映画とか、TVで大宣伝しないと、ヒットしない。
洋画は『スターウォーズ』の1作目が大ヒットした年だ。

プログラムピクチャーと呼ばれる普通の日本映画は、あまりTVドラマと差別化出来ないでいたが、ロマンポルノはテレビでは見られないものなので、一定の観客はいた。それでもジリ貧になりつつあったから、新人監督を出したり、実際の事件から取材して、物語を作ったりしていた。
何か、世間の目を引くものが求められていた。

結局は、その後『嗚呼、花の応援団』のような一般映画でのヒットは無く、80年で方針は変わり、85年に金子が『みんなあげちゃう♡』(これも大コケ)を監督したのが5年ぶりの一般映画ということになるが、入社した頃は、ポルノでデビューよりも一般映画でデビューもあり得るかも知れない、という幻想を抱いていたような・・・

那須さんから「今年の一般映画は『高校大パニック』の企画が上がっているらしいよ」と聞いたのは、入社して結構早い時期だった。
奥さんの真知子さんが脚本家なので、企画部の情報が早い。
高校が舞台でのアクションパニックなら、そんなに予算はかからないだろう。
決定は、割とすぐに下った。
なんと、石井聰亙が監督として日活に来るという。
え〜っ!?まだ日大の学生じゃ無いか。

その名前は映画通には既に知られていた。
『高校大パニック』自体も、週刊朝日でコラム記事を見たことがあるし、「11PM」にも、まだ子供のような風貌の、日大芸術学部の映画学科生・石井聰亙自身が出てきて、彼が作ったフィルムの一部が紹介された。
スピルバーグも8ミリ映画を作る映画学生のまま、ハリウッドの撮影所に潜り込んだところから認められていったという伝説を、みんなキネマ旬報で読んでいた。
これも15分程度の8ミリ映画だが、珍しい内容で、各地の自主上映では反響が大きい、という。

博多の高校生が、教師をライフル銃で撃ち殺して学校内を逃走、警察に捕まると「お、俺は来年受験なんだ、ラジオ講座があるんだ」と早口で呟く。
殺人で逮捕されて連行されるのに、叫んだり喚いたりして抵抗するのでは無く、取り憑かれたような表情になって、「ラジオ講座があるんだ・・」と言って日常に戻ろうとするショートショート的なオチがちょっと怖く、受験地獄の心理をカリカチュアして感じさせた。

後に、撮影所に来た石井君に全編見せてもらったが、何故教師を殺したのか、とか、理由はいっさい描かれていないが、とにかく世の中に反逆したい、しても無駄だがやっぱりしたい、という気分が伝わって来る。

僕が、高校〜大学で撮っていた8ミリ映画は、総じて言えば、“微温的な学園ドラマ”と括られるかも・・自分でそうまとめるのは抵抗感はあるが・・
母に「修ちゃんの学園日記ね」と揶揄されたことがある。(毒舌な母)

自分としては、挫折だの裏切りだの、人の胸に突き刺さるものを作りたい、とは思っていたが、カメラを向けて映るもので構成しようとすると、強いフィクションを作り上げることが出来ないで、リアルな話になりがちになるジレンマがあった。

マンガのように自由には描けない。でも、そこが映画というものの嘘が無いところでもある、と思っていた。
母には「なーんにも分かってないって感じね」と言われたが・・・

高3の時に「日本を記録するフィルムフェスティバル」に入選した時の審査委員長は大島渚だったが、総評で「高校生の映画は、ほとんどが、髪の長い男の子が、公園や学園で恋愛ごっこしてるようなものばかりでウンザリだ」というような事を言われて、自分の映画のことじゃんか、と思って赤面した。
石井君の『高校大パニック』は、その次元から飛び抜けていたのだろう、と思う。見た時に、そんなふうに総括的に思ったわけでは無いが・・・

石井君にも、僕が大学の時に作った8ミリを見せたら、
「高校の時から作ってる、って分かりますよ。慣れてる」
と言われた。
21という年齢より更に若く見え、人付き合いは下手そうだが、感じは悪くなかった。お互いに敬意を払えて、撮影中も以後も、友達付き合いを続けられ、『逆噴射家族』の後の結婚パーティにも参じた。

この78年は松竹で大森一樹が『オレンジロード急行』を撮り、助監督経験が無くとも監督になった自主映画出身者が、ポツポツ現れていた。
日本にもスピルバーグのような天才が現れるか・・・それは俺・・・?

助監督経験て必要なのか?と疑問を持ってる無能助監督がここにいる・・・

石井聰亙は、学生の身分で、日活に乗り込んで来るつもりか・・・と思ったら、澤田幸弘監督と共同で監督するという話だ・・・は?、二人で?どうゆうこと?

結局、組の名前は「澤田組」だった。

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