ロマンポルノ無能助監督日記・第22回[トンさんの海女モノと1980年の総括は城戸賞逸す!そのワケは?]

『少女娼婦けものみち』『朝はダメよ!』以降、1980年後半、24歳の助監督3年生としては、面白い仕事にはありつけなかった。

5月末からは、「トンさん」と呼ばれる藤浦敦(あつし)監督の『若後家海女うずく』に就いたが、このトンでも無い監督・トンさんのことを、知らない人にどう説明したら良いのか・・・

夏は海女モノ、秋は温泉モノの年に2本しか撮らない人(だのに、僕は、運悪くこの年もう一本就く羽目となる→『セックスドック淫らな治療』
「そりゃ災難だねぇ、金子くーん」は、那須さんの言葉・・・

この時既に50歳で、ロマンポルノ以前に監督デビューして8本目になるのに、身分としては何故かまだ助監督なので、「助監督室の古株」みたいな顔で常にエラソーにしているので、飲み会なんかでは、敢えて近づきたく無いし、誰も話しかけないから一人で飲んでいる。
・・・ということもないか、やはり古い助監督先輩が相手していたかな。

なんでそんなにエラソーにしているかというと、おウチが三遊亭の名跡(圓朝)を継いでいるので「宗家」と呼ばれて落語界では本当に偉いらしく、肌がツヤツヤで見るからにお坊ちゃまで育ちで、有名・無名な落語家を、縁故でロマンポルノに“賑やかし”として出演させる手腕(?)があった。
実際、現場に来た落語家さんらは、トンさんのことを「坊ちゃん」と呼んでいた。

ご本人が偉い訳ではなく、先先代(お祖父さん)が八百屋問屋をやっている時に、初代・三遊亭圓朝を支援して、その名跡を預かった、という事情がウイキペディアに載っている。

三遊亭一門の落語家が、自分の高座名を付ける時にこの家の承諾が必要になるということになろうか、その時、いくらか包むんでしょうかね、知りませんが。
そういう環境で、坊ちゃんとして育ったトンさんは、早稲田の政経を出て国文に入り直して中退し、読売新聞に努めてから日活入社という経歴で、それなりに大変な秀才だったようです。

トンさんが日活入社の1954年は映画黄金時代、新たな映画会社として日活が再スタートした年で、希望に燃えた僕と同じ24歳のお坊ちゃまとしては、その17年後に会社がポルノ専門になるとは想像出来なかったであろう。
裕次郎が活躍する青春映画の助監督としてはどうだったんであろうか・・・

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