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小説「クスクス嘆く」最終回

「ウン!」
クスクスは階段を蹴って飛び込んだ。
「ハルト!」
たちまち小さな点になって波の中へと消えた。壁と同じ色の荒波が行き来する。ややあって波は小波に転じた。
なおもしばらくすると、波の一箇所が盛り上がる。海の果ての赤黒いような肌色のような紫のような壁に、幾つもの巨きな目が一斉に開いた。どの目も抑えがたい期待のせいで爛々と輝いていた。
波の隆起した部分が割れ、翼を生やした巨大な魚状の物体が跳び上がった。翼は何十色もの虹が両肩から噴き出した光の束であった。身体の表面は富士壺のような細かな突起物で覆われていたが、突起物は人間の頭蓋骨であり大腿骨であり肋骨であり、他の脊椎動物の頭や体の骨であった。すでに絶滅した脊椎動物の骨も数多混ざっている。それらの骨は、魚状の物体の表面にこびりついているのではなく、肉の内部から盛り上がった硬質のポリープであり鎧であった。
海獣は尾を振りながら宙を跳んでいく。むやみに跳ぶことで疼痛を紛らわしている。頭部には裸身の男が一人、跨っていた。一本の太刀を海獣の片目に刺し、その柄をハンドルのように握った青年は、クスクスだった。腰布一枚の身体は、銅色の筋肉で覆われている。左右揃った目は血走り、濡れそぼった黒髪は腰よりも長い。
壁中の目という目が、海獣と青年クスクスの合戦を凝視している。クスクスは柄を握りしめ、振り落とされまいとしている。もう片方の目はすでに太刀でえぐられていた。海獣は鉄骨の白い階段に向って飛び込んでいく。ぶつかる直前、階段は刃物に変わる。天から海までを貫く一本の刃となる。刀は突っ込んでくる海獣の頭に切り込みをいれ、怪獣の進むに任せて切り進めいていく。胴体の半ばを切られたところで海獣は突進を止めた。
刀に変じた階段の、数箇所だけ残った段の一枚にクスクスは跳び移った。
「ハルトの馬鹿ヤロー!」
変声期をとうに終えた声で叫ぶ。
「おれに着いて来いって言っただろ!」
クスクスを興味深く凝視していた目という目はゆっくりと瞬きをする。クスクスの載っている段が、カタカタと危なげな音を立てる。
「……ああ、分かっているよ。叫んでも無駄だってな。……他の餌もろとも、お前らが食べちまったんだからな」
目玉の一つが、煤の色をした涙を流した。悲しみの涙ではない。人間のオスとメスが交合の過程で漏らす分泌液に近かった。涙を流しながら妙な色をした海へずり落ちていく。壁には煤けた涙の痕が帯状に残っていた。
「ほら、始まりやがった」
一つめの目玉につづき、二つ三つと煤色の涙を垂らして海へ沈んでいく。クスクスは階段から海獣の頭に飛び移る。太刀を抜くと腹立ちまぎれに振り回す。
「この!この!この!」
目玉達の涙の色が濃くなる。
「おれが悲しんでいるのが、そんなに嬉しいか!ムキになっているのがそんなに楽しいか!お前らはいつだってそうだな。人間が何十万苦しもうが、何百万斃れようが、お前らってヤツらはそれを全部餌にしちまうんだ、楽しい事もうれしい事も見境なく潰して呑み込んじまう、糞の代わりに明日ってやつを吐き出すんだ、これから先、何億回もそれを繰り返すんだ!」
海獣がゆっくりと傾き始める。重さに負けて徐々に刀を滑り降りる。クスクスは手近の段に跳び移った。虹色の羽根を血飛沫のように吹き上げながら、海獣は海へと落ちた。海面から飛沫が高々と跳ね上がる。空にはまだ翼の虹が光の粒子になって渦巻いている。海の飛沫と虹の粒子が宙でぶつかり合う。それは夥しい色数のスコールとなり驟雨となり、しばらくのあいだ降り注ぐ。
スコールが去ると景色は一変した。
景色の半分から上は青空、下半分は森と砂浜になった。幾つもの積乱雲が互いの巨きさを競いながら輝いている。森林は熱帯雨林の植生で覆われ、そこからマングローブの砂浜へ出てくるのはすでに滅んだ恐竜であり、絶滅した大小の爬虫類や哺乳類たちであり、現存する生物であり、これから先、進化の過程で登場するかもしれない動物群であった。どの生き物も水を浴びにこの砂浜へやってきた。
朝が始まり間もない頃だった。すなわちまだ、殺戮の行われていない時間帯であった。人間はアダムとイヴに変わらない姿であらわれた。動物群に比べれば貧相な身体だ。動物はどの種族も数多くいるのに、人間はまだ二頭しかいなかった。生き物たちが海の浅い辺りを歩いていく。人間はそれらの生き物の間にそっと忍び入る。膝が沈む深さまで進むと腰をかがめ海水に浸かり、恐竜や動物と同じように己の身体に水を掛け、つがいの片割れに水を掛け、大人しくほほえんだ。
「……。ふん、くだらない」
刃物はまだ天から海へ刺さっていた。
少年の姿に戻ったクスクスは、乾きはじめた涙を袖で押しぬぐう。十徳ナイフを左目の穴にしまいファスナーを閉じた。階段から勢いよく跳ぶと、岩の上から上をスーパーボールのように跳ね、樹々の上を跳ね、森の彼方へと消えて行った。

波の中に落ちた僕は、自分が死んだのかと思った。
でもそれは大した問題じゃないって沈みながら思った。だって今までだって死んでいたみたいな人生だったんだから。人生って言うにはみじかい時間だったけど。だから今だって死んでいるのかもしれないけど、生きているのかもしれない。海の中で呼吸が出来るのはそういう訳だ。
僕はおじいちゃんを探した。僕は自分が生きていなくたっていい。おじいちゃんを見つけるのがきっと、おじいちゃんを助けることになるんだ。僕のいのちなんてちっぽけなもんだいだ。
探すのは大変じゃなかった。探そう、と思っただけで、おじいちゃんは僕の斜め後ろに現れてくれた。嫌なこと全部から僕を守ってくれるおじいちゃんがいた。おじいちゃん、そう言いたかったけど、のどが詰まって何も言えなかった。涙がゲンコツくらいのかたまりになって、僕ののどを塞いだんだ。おじいちゃんが腕を伸ばし僕を抱き締める。
おじいちゃん、おじいちゃん。ごめんなさい。おじいちゃんを絞め殺してごめんなさい。おじいちゃんを殺したいなんて思っていなかったのに。誠おじさんのいいようにされているのがおじいちゃんにバレた時、忘れて欲しいって思っただけで死んじゃえばいいなんて思わなかったよ、本当だ。僕が死にたかったのに、おじいちゃんを死なせちゃった。ああいう時は、誠おじさんなんか死んじゃえって思えば良かったんだね。他にも死んじゃえばいい人達はいるよ、あの日僕と一緒に寝室にいた人達だ、みんな僕が見ているうちに部屋ごと崩れちゃったよ。
おじいちゃんは僕の頭をなでた。
「もう何も言わなくていい」
「おじいちゃん」
「お前の声は、私にはちゃんと聞こえるんだから」
おじいちゃんの腕の力が強くなる。人間の力を越えた強さになる。僕の骨に罅が入る。それがちょっとの間苦しかったけど、すぐに楽になった。くすぐったいくらいだ。やせ我慢じゃないよ、ほんとうだ。
だって罅の音が聞こえるでしょ。
笑っているみたいだ。
くすくすって。





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