【小説】桜をマニアに愉しむ方法
高校の制服を最後に着たのは、卒業式ではなかった。近しく行き来するほどでもない親戚の家で、大きな葬儀があった。卒業式の後とは言え一応は学生なのだし、制服で都合の悪いこともないだろうということを言われ、礼服を誂えるのは僕だって窮屈だ、何も考えず詰襟姿に普段使っているスポーツバッグを選び、北上中の桜前線を新幹線で越えた。
なんだか甘いものが食べたくなっちゃった。
離婚と結婚を繰り返すおばは気楽な人で、精進落しの席を立つとそう言って僕たちを甘味処へ連れていく。常々、従兄姉や僕といった年端もいかない連中を連れ歩いて扱いに困らないのだろうかと思うのだが、おばに言わせれば「若い人」というのは親戚連中のなかではめずらしく「肩の凝らない人種」なのだそうだ。豪雪地帯の海運商の邸を改築したという店の中は壁も床も黒塗りに造り直し、窓から差し込む日射しがその漆黒に愛想笑いのように反射する。先を行くおばが短い感嘆の声をあげる。中庭に面した一画が緋毛氈に座布団をならべた桝席になっていた。その赤と黒のコントラストにたわいもなく歓喜する、おばはそういう人だった。僕らはおばの背後で目くばせをし、席に納まった。
ガラス張りの窓を従姉が開ける。閉めろよ、寒いだろ。寒がり、おじいさんみたい。僕たちの口争いを愉快そうに横目で捉えたおばは、中庭の奥へと視線を移す。男の名、と思しき語を大声で、それも「ちゃん付け」で発すると、庭の奥の黒いコートが振り向いた。なにしてるのよ、「よ」にアクセントを置くおばの問いには、たいしたこともしていないんでしょ?という揶揄が含まれている。その問いにはこたえず、黒いコートは霞が流れて姿を変えるような速度で近づいて、濡れ縁まで着いた時にはちゃんと年齢のはっきりした男の顔になっていた。遠目に見るより若くはない。歩いてくる間に年を纏ったみたいだった。
あの木、桜なんだ。
呼ばれて迷惑なのか、そうでないのか読み取れない表情で、それでも先刻まで見上げていた庭木をおばに紹介する。
まだ咲いていないじゃない、ぜんぜん先よ。
先だね。
桜、好きだね、あなた。
そうでもないさ。
なぜだかそんなやり取りにあわせて、桜の香りが桝席に漂ってきた。濡れ縁に腰かけたおばの知り合いと思しきその人はその年齢にあわせて古びてきたのかと思わせるコートを纏い、背中の線が曖昧なのはコートの年齢のせいなのか年相応についたこの人の肉なのか、判然としなかった。草臥れの見えはじめた中年、地中に伸びた根は水の吸収効率を上げるために先端から枯れ始めるという、どこかで聞いた話、けれど不思議とその人の背後には真っ白に輝く満開の桜、無口でありながら何か言いたげにたゆたゆと花房をゆらす春の大木が似合いそうで、その静けさは一人でいる時間が長過ぎた人、ということか、おばが親しげに相手をする男性には稀にこういう人がいた。
やだ、そんなの頼んでる。従姉が頓狂な声を上げる。軽い挑発を込めた視線は、ぼくの手許に注がれている。見ると桜湯が一碗、ぼくの頼んだ抹茶餡の菓子の脇に添えられていた。桜の花の塩漬けに湯を注いだそれが、花の香りの正体であった。
それ、結納のお席で出て来るものよ。黒い詰襟姿のぼくを外せばみなが葬礼の正装、確かにこんな一行の席には相応しからぬ飲み物ではあったが、何かにつけぼくの優位に立とうとする従姉には反発をしてしまう。
べつに良いだろ、式は終ったんだしさ。
ううん、変。
従兄が助け舟を出す。
槇だって知らなかったんだろ。それがついてくるなんて。
ぼくの名前が従兄の口からこぼれると、その人の視線はぼくの方へと流れた。眼があった時、すでに見透かされていたんだと気がついた。数時間前の法要の席。ぼくは親戚連中や弔問客の肩越し喪服のあいだ越しに、三度四度、この人の姿を盗み見していた。この人だけが見知らぬ人じゃない、はじめて見る大人も大勢いる中で、でもどうしてか特別、この人はぼくが知らなくてはいけないような印象を、正確には錯覚を、受けた。式が進むにつれ頭の中を占めていたのは、あの人を次に見かけるとしたらいつだろうという考えだった。
その機会が思いもしないほどの早さで訪れながら、胸の中には水にインクを一滴落とした陰影が広がっていた。薄い絶望だ。理由は簡単だった。ぼくに正面を向けたその人の顔立ちは、その年齢らしい肉の緩みが認められ、ぼくという年齢から見れば人体の精緻な組織を外れ、古い洋卓のうえで揺れる怠惰な陽だまりの二重線のぶれ。横から覗く従兄の面持ちは、内側から巻き上げたように肉が骨格に張り付いて石膏の滑らかさ、たぶんそれは人目にはぼくにだって現れている未完の潔癖。その二つはけれど、似ていなさそうで丸きり似ていた、二手に別れた径がその先でぴたりと一本の線に重なり合うように、目尻の睫毛の流れ方や耳下の骨の張り出し具合が相似していて、何なんだ、この狭すぎる世界は。しばらくの間ふたりの男を見比べていれば、重なり合う箇所はもっと見つかるはずで、迷い込んだ草原に顕れた石の道標が茂みの深さに隠されていただけで、ずっとそこから動くことのなかった定点であるみたいに。道標はぼくに一つの意地悪な方向を指し示す、十八歳という年齢にとって、自分という人間は見渡せる範囲の世界しか手に入れようとしないのだ、そう知るほど絶望的なことはない。
槇。この人ね、あなたが四月から通う学校の教授なの。
人が知らないことを教える時の、おばの鼻に掛かった声。お節介な枷の中に早くも押し込められた、ぼくの新生活とやら。
研究室に遊びに行ってあげなさいよ、この人こう見えてさみしがり屋なの。
教授じゃない、助教授だよ。
植物学、教えているのよね。
まあ、そうだね。
ねえ、あの話、あれからどうなったの。貴方が研究室に何処ぞの男の子を連れ込んだっていう。
そんなことはしないさ。
相手の子、いくつ?
悪意のある噂だよ。
おばさん、わたしその話、初耳。
女たちの囀る醜聞にその人は顔色も変えない。従兄が会話に割って入る。
そうそう。叔父さんの書いた本、読みましたよ。
なんだ、言ってくれれば送ったのに。山程売れ残っているんだ。
従兄が「叔父」と呼ぶその人は、ぼくとどれ程はなれた系図の上に存在しているのだろう。従兄の旺盛な知識欲、身内への虚栄心、年上の男への媚態、それらを力にして内側から光を放つ瞳、ぼくは従兄を咄嗟に遠ざけた冬曇りの日の、あの鎖骨の堅い感触を思い出していた。
なんだ、したことないんだ。
そう揶揄われると却って安心したのは、立場を下に置いた方が従兄のするままに任せられそうだったからだ。
もてそうな顔してるのにな。うるせえ。その指がぼくの顎に触れ、なんだ、ただの皮膚と皮膚の接触じゃないかなんて強がってみたが、ぬめぬめとぬるい生き物が唇を割って入ってきた瞬間、従兄の身体を突き飛ばしていた。真っ先に眼に入ったのは、従兄の唇からぼくの唇へとつながった唾液の糸の光、光は従兄の唇の中まで続きぼくを驚かせた桃色の生き物を包む繭となって光沢を浮かべている。まだガキなんだな。突き飛ばされたことを怒りもせず、それどころかぼくの咄嗟の反応をたしなめるような、わずかな照れくささまで織り交ぜた器用な薄笑いで部屋を出ていき、ぼくは高鳴りをやめない心臓を煩く感じながらも廊下の物音、というより従兄の身体から薄まることなく発揮される気配を壁越しに追い掛けて、その気配が白い夜具にくるまれた祖母の仏間、二度と眼を開くことのない人の横たえられた部屋に戻ったのを感じ取ると心音の乱れはようやく落ちつき、間の抜けた緩慢さで千切れた唾液の片端が残った唇を手の甲でぬぐった。系図から親しい人が消えたというあの冬の出来事、祖母の身体に異変があったために生じた周囲の大人たちのささやかな動揺や静かな諦観、それに呼応してぼくの心臓の裏側に広がる蜘蛛の巣のような暗い靄、その一連の日々を思い出そうとしても過ぎた時間は近くも遠くもなく、ずいぶんと手応えのないものなのに、従兄とあんな顛末のあった夜として思い出せば十年も昔に思えるほど遠く離れ、それでいて細部まで鮮明に蘇えることのできる記憶としてぼくの体内に小さく身を縮め、薄日を返す小片の鉱石となって残っているのが不思議だった。
そんなことを思い返していた間、桜の似合う男はぼくを観察していた。変温動物の足指のような、軽微だけれど看過できない湿り気が皮膚に載った感覚がして、見上げるとその視線に触れられていた。桜の幹の裏に潜んで、この世を窺う蜥蜴の眼。
その時、なにか従兄に、意趣返しをしてもいいような気持ちになった。途中で終わった、あの他愛もない遊びの続きだとか。悪巧みめいた考えが頭を巡っているのに、意図せず捕まえたその視線を手放して、視界は手元の碗へ迷い込む。湯の中で揺れているのは、ほぐれた後のうすべに色の襞。この人にぼくはどんなふうに見えているのだろう、従兄の時のように揶揄いを織り交ぜてぼくの固く閉じた箇所を、従兄とはちがって奧まで触れるのだろうか。ぬるま湯かはたまた熱湯か、それに無理強いされて開くしかないうすべに色。そんな想像が血液よりも早く脳内を駆け巡り。
何か、耳赤いよ。
従姉のお節介が五月蠅かった。もう一度、桜の匂いがつよくなり。
私も頼んじゃった、槇とおなじの。
おばが無邪気にそう言って、桜湯の碗の縁に口をつける。
ほんとうにいい香り。一足先に春って感じ。
そんなに悦んだら、死んだおじさんに悪いだろう。
たしなめながら、その人は苦笑いする。おばは人の思惑には頓着せず、したいことだけをする人だ。
なんでこんなにいい香りなの。植物学者さん、教えてよ。
苦笑いがほんとうの笑いになって、短くこぼれる。
クマリンだ、桜の香りの主成分は。
知悉した分野を語る時の僅かばかりの優位な気持ちを押し隠して、けれどその瞳孔は自尊心に色濃く引き絞られ、二重にぶれていたその人の輪郭線、姿かたちが迷いのない一つの線となる。よく見れば指はずんと太く、手の肉はよく締まって分厚い。
クマリン。
ぼくは呟いてみる。語尾に微かな疑問符を付して。ぼくの耳中の水面に放り込まれた小石がひろげる幾重もの輪、それを外界へ押し広げるように発語する。その人の眼がふたたびぼくの上に留まる。白い花を毛髪のように揺らす桜の大木に見据えられていた。いや、見据えていたのは、その幹の後ろから生きて動くもの等を窺う蜥蜴。それとも蜥蜴の眼は、桜の意思が念となってこの世に突き出たものなのか。
槇。おばの悪戯めいた声音。研究室に行くときは今日の制服を着ていって上げなさいよ。
そんなことしてもらう必要はないさ。
制服姿じゃないと憶えていないでしょ。
そんな趣味はない。
今のは語るに落ちるってやつ?
ぼくは突かれたように口を動かしていた。
いいですよ、制服、着ていきます。
従兄が呆れ顔で咎めた。
何言ってんだよ、大学生が高校の詰襟なんかで登校したら恥かくぜ。
恥なんてかかないよ。着たい物を着るんだ、何が恥ずかしい。
だから、よせって。
冗談にしては強情なのを訝しみ、従兄はぼくを睨みつける。
おばさんが変なこと言うから、男どもが大変。
わたしの所為?
おどけてみせながら、ぼく達二人を見ようともしない。そんなおばに一瞥を流しながら、ぼくは片方の頬でぼくから焦点をうごかさないその人の視線を受け止めていた。叔父さん、約束しましたよ。だから今日のぼくの姿、貴方が視線を這わせているホックの外れた喉もとから胸板に持ち上げられた金釦まで、この姿を憶えていてください、ぼくの眼は器用に貴方の視線の下を潜り、その分厚い手、堅そうな肉の上をなぞり、存外産毛の少ない手の甲、一瞬眼があっただけなのに貴方を捕まえた気になって、何を言っていたのだろう、捕まっていたのはぼくの方だった。すでに貴方の瞳孔の中には、その手で喪服代わりの詰襟を引き剥がされたぼくがいるのだろうか、無理強いされて開くしかない花びら、剥き出しにされた肩甲骨が机の天板に痛みを感じているあいだ、閉ざされた部屋の外側で天へと広がる桜の芳香。叔父さん、こんな時は眼をつむった方がいいのかな、それとも全部見ていてほしいですか、花びらは花の死骸、意志はない。
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