【縁(えにし)♡】
これまで、自分を見失いそうになったことが2回ある。
1回目は、大学卒業後初めて就職した会社を11年勤めた後、自己都合で退職した時だ。それまで、幼稚園に入園して以来ずっとどこかに所属して来た。例えば…「〇〇幼稚園のうめ組のしゅりちゃん」とか、⬜︎⬜︎高等学校1年6組のしゅりさん」とか。
「XX株式会社財務本部〇〇グループ」と肩書きのある名刺を見せれば、取引先の会社の部長さんや、銀行の支店長さんと会って普通に話すことが出来る。だが、ひとたび所属している組織を離れて「一個人」となったら、誰が相手にしてくれるのだろうか?
何の取り柄も無い、才能もない、肩書きもない私を、誰が振り向いてくれるのだろう?
会社を辞めてしばらくは、フリーターのような生活をしていたのだが、常に、このままでは誰も振り向いてくれないのではないかと不安に苛まされた。
そして、2回目。こちらは更に強烈な記憶として残っているが、立て続けに病氣で両親を亡くした時だ。先に母が逝き、翌年父が後を追うように亡くなった。短い期間に両親の看病やら、お葬式の手配やらと次々にやって来るものを、追われるようにこなす精一杯の日々が続き、何とか一段落ついた頃、今度は、根っこが定まらない水面をプカプカ浮いている浮草のようで、とても立っていられない不安定な感覚を、どうすることも出来ずに、ただズドンと落ち込んでしまった。
社会人として給料を頂けるようになり、お金も時間も自由になって、まるで一人で大きくなったような偉そうな顔をしていたのだが…とんでもないことだ!どれだけ両親に守られていたか、親が諦めずに愛を注いでくれたからこそ今の自分があることに氣づかされた。その喪失感はブラックホールのようにポッカリと空いた大きな穴のようで埋めようのないものだった。両親が生きている時は、反抗ばかりしていて目の上のタンコブのような存在だったが、まさに、失って初めて知る親の有り難みである。
この2つの経験を通して思ったのは、私が私として存在できるのは、周りの「縁」があるからで。何もないところに私の存在を証明することは難しい。周りの人たちとの関係性の中で、はじめて私という個人の輪郭が浮き彫りにされる。周りの縁があるから、自分の役割が与えられ、人を大切にするから、自分を大切に出来るということ。
先祖という縦の繋がりと、友人や家族という横の繋がりの真ん中に私が居る。
そう考えると…人の為に生きることがとても意味のあることではないかと思う。