【編集者の言い分】「人脈」と「スキマ仕事」に思うこと
「マルチーズさんって、器用だから大概のことできるじゃない? ついつい甘えて、スキマ仕事頼んじゃうんだよね(テヘッ)」
え。
えええー……それ、私をディスってますよね? 褒めてるふりして、いやふりにもなってなくて、ふつうに褒めてませんよね? 器用じゃなくて、器用貧乏て言いたいんですかね? スキマ仕事て、ならセンター仕事は任せられないと言いたいんですかね!!!?
誰にも、これ言われたらキツイわー…という一言がある。上記は、わりと最近、私が先輩から言われたセリフです。その先輩は我が社には1割くらいしか生息していない真性の陽キャで、わかり合えないわ永遠に、と思うところもあれば、わかり合えない分、自分とは真逆だからこそ憧れる気持ちもあって、まあつまりはわりと好きな人で。
でも真性の陽キャさんだからこそ、本当に全く悪意なく、「それNGワードですやん…」をぶちかまし、まあまあ方々でトラブルも起こしてる。
私、マルチーズ竹下と申します。
神保町の出版社で、30年以上、編集者をやっています。職業柄なのか、単に性格なのか、言葉の使い方/選び方には、こだわります。高校時代、友達が当時大ヒットしていた連続ドラマ(恋愛もの)について「愛するってああいうことじゃないよね?」「あの態度は彼氏に対するものじゃなくて男友達向けかと」「手を繋いだら裏切りだよ」と他愛のない話で盛り上がる中、「愛とか恋について話すなら、そもそも愛と恋の定義からおさらいしてリスタートしたい。今のまんま話進めるのは気持ち悪い」と言い、引かれたことがあります。そのわりに、メールは誤字脱字が多いし、刺殺をずっとササツと読んでいたし、威嚇を時々イセキと発してしまうし、校正作業は外部校正さんのお力なくしてはとてもとてもおぼつかない有り様です。なんでだろう…。
言葉に精通しているわけではなく、敏感、なだけなんだと思います。
だから、人が発する言葉に簡単に傷ついたり、舞い上がったり、感情が左右されがちです。自分が発する言葉にも同様で、公の場ではできるだけ準備し整理してからしゃべりたい派。パッとマイクを渡され、えーどうしようと言いながら、軽妙なトークで座持ちを良くできる人には頭が下がります。
シュッパン前夜の活動の一環で、時々皆さんと座談会で話す機会を与えていただいてます。配信前にチェックを求められるので視聴するのですが、もう、一度さっと目を通したら、その後は怖くて見返せません。ピクトさんやゴファンさんが経験み豊かで具体的なエピソードを端的に披露されるなか、私は時々ううっと詰まりながら、どこを見ているのかよくわからない定まらぬ視線で、えっちらおっちら言葉を紡いでいる。ふとMCのケーハクさんを見れば、「この部分カットだな。ゴファン氏のトークからアワジマン氏のオチにうまく繋いで…」と編集方法を考えてるとしか思えない冷たい表情が視界に入る。肝が冷えます。
そんなわけで(どんなわけで?※)、今回は、実際に出版業界で、私がたくさん耳にしてきた“ザワつく言葉”について書きます。(※この書き出しも、よく使いがち)
私ほど妙なこだわりはなく、ビビリではなくても、誰しもが「この言葉は聞くのも使うのも苦手」というのがあるのではないでしょうか。
仕事の場で「器用」を使うのも、気をつけないといけないかもしれません。専門性や強みを持たないというネガティブな意味合いで受け止められてしまう可能性がありますし、どうしても「貧乏」をくっつけて連想しがちだから。
スキマ仕事、という言葉も、危ういと思いませんか。チームで働いていると、どうしても名もなき作業というものが隙間隙間に発生してしまいます。大抵は担当も決まってないから、なんとなーくで手足を動かす人が決まってしまう。で、パッパッと要領よくこなせる人が「じゃあ自分やっときますよー」となるんだけど、毎回だとハテ?と思うし、スキマだけに目立たず評価の対象にもならず、なんだかなあ…が募ります。
料理や洗濯、掃除だけが家事ではなく、“名もなき家事”が生活にはあふれているように、仕事にだってスキマも高気密もないはずです(目立つ・目立たないはあるよね)。
私が働き始めてからずーっとザワザワしていた言葉に「人脈」があります。
人脈がいちばん。
仕事は人脈が命。
人脈に助けられた。
多分、使ったことがない人はいないのではないでしょうか? 便利だし、使いやすい(意図が伝わりやすい)、そして人と人との繋がりが有効であることに間違いはないから。でも、私は使ったことがありません。
……とは、残念ながら言えません。原稿にもよく書きました。だって、著名人にインタビューすると、本当によく登場するんですよ!
15年ほど前に企画し出版した本の著者は、この言葉を全く使わない方でした。あえてその理由を聞いてみたら、
「ふーん……確かに使わないですね。理由なんて考えたことがないけど」。
でも、と続きます。
「人を脈にたとえるのって、失礼な気がする。そもそもどういう意味なの? え、『仕事の上で役に立つ知己』?
ふーん。
自分にとって役に立つか立たないか、の損得感情が、堂々と顔を出してる言葉はダメなんじゃない? と無意識に感じていたから、使ってこなかったのかな」
……かっこいい(涙目)。
同じような理由で、人を指して「使う」というのも苦手です。
あと2人スタッフ増やしてうまく使ったら、もうちょっとスムーズにいけるんじゃない?
とか、
今度カメラマンの◯◯さん、使ってみようかな。
とか。
もちろん、身内間において、手っ取り早く要件や提案を伝えるための便利な表現というのはわかる。でも、まるで人を道具のように見ているようで、なんともそわそわして居心地が悪いのです。成果物が出来上がるまでは、人はみんな何がしかの道具であり、道具として志高く、その道具なりのパフオーマンスを発揮せよという理屈はわかりますが、これこそ言葉遊びのように思えてしまいます。
万葉集に、すでに「言霊」が登場していたように、私たちは古代から、言葉には不思議な力が宿っていると信じてきました。発したとおりの結果を現す力が言葉にはあるのだ、と。
ここに挙げたのはほんの一部のさらに一部で、私たちはもっと、多くの言葉の持つ力に気付き、畏怖し、発するのに慎重になったほうがよいのかもしれません。それには聞いた人がどう思うのかな?と想像する力を鍛える努力が必要です。
ビビってダンマリを決め込むより、これからも誰かと自由に話すために、鍛錬する。
編集者として、一個人として、そこは頑張りドコロだなと思うんです。
文/マルチーズ竹下
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