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新聞記者にはなれなかったけれど。
無私の人
新聞を読むと思い出す人がいます。共同通信の名物記者として鳴らした万代隆さん。
私が出版業界の片隅で編集者として何とか頑張れているのは、この方のおかげなんです。
あれは大阪で大学生をしていた頃、新聞記者になりたかった私は、ジャーナリズムをテーマにした万代さんの講演会に参加しました。
その内容に感銘を受けた私は、あまりそういうことは苦手だったのですが、講演のあとに駆け寄って感想を伝えました。
すると、「今度飲みに行こう。ここにいつでも電話ちょうだい」と言って、名刺を渡してくれました。後日、共同通信の編集部に緊張しながら電話をかけると、梅田のガード下の飲み屋を指定されました。
文字通り、こんなどこの馬の骨かもわからない若造になぜ会ってくれるのか、信じられない思いでのれんをくぐると、「よぉ、こっちこっち」とすでに顔が赤い。
風貌は競馬評論家の井崎脩五郎さんに似ていて、笑顔が絶えないところもそっくりだと感じました。
野球と短歌が大好きな万代さんは「短歌はいいぞ。自分の文章にリズムがあるのは短歌のおかげ」と力説していました。
記者の仕事の面白さと難しさ、ジャーナリズムの価値、野球の奥深さ。いろいろな話を熱く語り続け、公平無私の心で取材をすることが肝要だと教えてくれました。
学生相手にも謙虚に話す姿勢に深く感銘を受けたのを思い出します。
最後は「記者になれるようがんばれ。応援する」と激励してくれました。
万代さんがデスクを務めるほとえらい人で、名物記者だったと知ったのはずいぶん後のことでした。
結局、関西での新聞社の試験に落ちまくった私は、大学卒業後にマスコミの仕事を求めて上京。
東京でも就職先が決まらず、挫折しそうになる私に万代さんは何度も手紙をくれました。
名文家の書く文章が何たるかを教えてくれる手紙で、一言一句かみしめるように読みました。
最後はいつも「あきらめるな。がんばれ!がんばれ!がんばれ!」で締めくくられていました。
その後は小さな編プロに転がり込み、薄給で馬車馬のように働く日々。
もう限界かなと思ったときや志を忘れそうなときは、万代さんの手紙を読み返しました。
サッカー雑誌の編集長になったとき、何度か連絡しようと思ったのですが結局できませんでした。
新聞記者にはなれなかったという負い目のようなものがあったからかもしれません。
ずいぶんと月日は流れ、数年前に万代さんが亡くなっていたことを知りました。
なぜこんな自分にずっとエールを送り続けてくれたのか。
お礼を言えなかったのが悔やまれます。
万代さんが注いでくれた言葉はその後もずっと私を支え続けています。
いま振り返ると、万代さんのような人がいるというのがずっと希望だったのだと思います。
万代さんのコラムには敗者を思いやる視点がありました。
記者にはなれなかったですが、せめてその生き様に少しでも近づけるよう、慈愛の精神をもって本作りにまい進したいと思います。
文/アワジマン
迷える編集者。淡路島生まれ。陸(おか)サーファー歴23年のベテラン。先天性の五月病の完治を目指して奮闘中。
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