自己紹介
始めまして、しゅぱと言います。noteを始めるにあたり自己紹介も兼ねて最初の記事を書いてみました。
はじめに
noteでは主に以下のテーマで書いていこうと考えています。
➀受験や勉強について(中学・高校・大学)
②就職活動・転職について
③クルマについて(新型車~旧車まで幅広に車種紹介や、買い方・選び方など様々な切り口で)
④自動車業界や完成車メーカーについて
⑤雑談(上記以外の経験、趣味、小話など雑多に)
※テーマによりアカウントを分けるかもしれません。その場合でも私だとわかるようにはしておきます。
上記テーマに興味がある人はもちろん、例えば➀であれば親御さんにも参考になる記事も出していこうと思いますし、③であればクルマを買いたいが詳しくなくて困っている方の助けになるような記事も出していければと思っています。
私はこれまでの人生で、比較的濃く、また比較的珍しい経験をしてきたかなと思っています。その経験を誰かの何かに役立たせたいなという思いからnoteを始めようと思いました。今後展開予定の記事にも関連しますし、記事の説得力や根拠を示す意味でも、まずは最初に自己紹介を書きます。
誰だかわからない人間の自己紹介ですし、長いと感じられるかもしれません。面白半分でも、ご自身の求める情報に関する部分だけでも、スタンスはお任せしますがぜひ読んでいただければと思います。
(もちろん、全部目を通していただければ幸いです)
今後の記事は、以下の自己紹介で言及していることをひとつひとつピックアップし、より詳細にしたものを出していこうと計画しています。
書きたいトピックはたくさんありますが、もし自己紹介を読んで詳細に知りたいテーマ等があったらコメントで教えてください。優先的に投稿します。
それと、もし私の知り合いがこれを読んで「これアイツだろ」と思ってもそっと心に留めておいてください。
基本情報と経歴(概要)
まずは私の基本情報、経歴の概要を紹介します。
基本情報
ペンネーム:しゅぱ
年齢:20代半ば
性別:男
出身:群馬県(榛名山の東麓の村)
現居住地:東京都某区
現在の仕事:big4のどこかでコンサル
前職:トヨタ自動車(総合職)
趣味
・クルマ(物心ついた頃からクルマ好き。大学4年から旧車を保有中)
・サッカー/フットサル(プレーも観戦も。20年近く横浜F・マリノスのファン)
・お酒(普段はビール。飲みに行くときは全ジャンル)
・音楽
経歴
・地元の村立小中学校で田舎者としての素地を固める
・中学校を卒業後、群馬県立前橋高等学校(希少な公立男子校)へ進学する
・高校卒業後、中央大学法学部法律学科に進学する
・1年で仮面浪人を成功させ、一橋大学商学部へ進学する(卒業時学科は商学科)
・大学卒業後、愛知県の完成車メーカーへ就職する(事技職という、いわゆる総合職)
・big4のどこかへ転職、コンサルとして現在に至る
ざっと、私の基本情報と経歴の概要はこのような通りです。
次に、基本情報や経歴に関する詳細を紹介します。今後の記事展開にも関連するためぜひ読んでほしいです。興味のある部分だけでも。。。
基本情報と経歴(詳細)
小学生時代
基本的にやりたいことはやらせてもらえる家庭だったので、習い事は多かったです。すべて自発的にお願いして始めたもので、両親に言われて始めたものは一つもありません。
【小学生時代の習い事】
・ECCジュニア(週1~2)
・小学校のサッカー部(週4)
・スイミングスクール(週1)
・地元の和太鼓団体(週2)
・小学校の陸上部(4~7月に週3)
・小学校の水泳部(7~8月に週2)
・小学校の駅伝部(9~11月に週3)
お気づきの方もいるかもしれませんが、1週間の日数が足りないので、1日に複数の習い事をこなしていました。
一番ハードな日で言うと、陸上部→サッカー部→和太鼓とかありました。
よく小学生の体力でこの生活を数年間も送っていたなあと、今振り返っても理解できません。笑
ただ、この生活を小学生の時にやれていたことは、その後の私の人生を形成したり、大きく変えたりしていると思います。
例えば和太鼓は大学まで続けていました。高校生以下のコンクールで4回ほど全国大会に出場し、高2で出場した最後の大会では上位入賞もできました。
コンクール以外では有償・無償での出演依頼もある団体でしたので、カッコよく言えばセミプロとして活動していました。
またサッカーに至っては、現在も会社のサッカー部に所属しており、自分を支える大きな幹の一つとなっています。
で、これだけ習い事だらけの生活ですが、小学生なのでもちろん友達と遊んだりもしていました。遊ぶ時は大体サッカーか野球かゲームだった記憶です。(これだけの習い事をやっていながら、友達と遊ぶ時もスポーツ。。。)
ほんと、よく時間が足りていましたね。
で、こんな感じなので勉強なんかろくにやらず、宿題も朝学校についてから朝礼までの時間でやることもしばしばありました。勉強は嫌いではなかったと思いますが、つまらなかったので自分の中での優先度が最下位だったのだと思います。
ただ、勉強はやらなくても、学校では80人くらいいる学年の1、2位だったので先生や友達の親には優等生扱いをされており、いい気になっていました。
その分、効率的に勉強する能力は身についていったような気はしています。
一応チャレンジn年生も6年間受講していましたが、数年分未着手でため込んでました。
だんだん親に申し訳なくなり、数か月でため込んだものを消化し、赤ペン先生に貰ったシールでiPodシャッフルを手に入れ父親にプレゼントしました。
(父は今でもそのiPodシャッフルを使っているらしいです)
・中学生時代
私の通っていた中学は公立小2校の進学先となっており、学年の人数が倍近くの約150人になりました。相変わらず勉強の優先度は低かったのですが、入学テストで学年2位だったことで正直、完全に舐めきっていました。
中学時代も変わらず勉強以外、特にサッカー部が激務だった記憶があります。全部活動の中でずば抜けて厳しく、スケジュールもカツカツの部活でした。ただしその分古豪といいますか、県内中体連では強い部類だったはずです。
【中学生時代の課外活動】
・サッカー部(週6、土日は絶対に終日練習試合or大会)
・和太鼓(週2、全国大会前は週3)
・ECCジュニア(週2)
・塾(週2~5)
・カナダへの派遣学習(中2の夏に1週間程度)
特に土日がハードで、毎週末こんな感じでした。
サッカー部の練習試合(朝7時集合で3試合)→塾の授業→授業を中抜けして和太鼓の練習→塾に戻る→23時帰宅→翌朝サッカー部の練習試合(朝7時集合で3試合)
この生活のおかげで、もし今後仕事で終電帰りが続いても耐えられる自信があります。
勉強に本腰を入れたのは中3の夏、部活の引退後でした。
勉強がつまらなかった私がやる気になったのは理由があります。
中2の時にサッカーの試合で、復帰まで半年かかる大怪我をしたのをきっかけに、部内でイジメに遭ったことです。その時の主犯の1人が中3夏に、のちに私が行く高校のライバル校にサッカーで内々定を得たのを見て、こんな奴に負けるわけにはいかないと火が付きました。
ちなみにそいつはものすごく勉強ができたわけではなく、学力でその高校に行くことは出来なかったと思います。
幸いなことに、私はまともに勉強をしなくても学年5位くらいをキープしていたので、前橋高校で進路希望を出しても、学校や塾の先生にはGOサインをもらえました。(親だけは最後まで半信半疑でしたが)
結局、先述の課外活動の実績もあり、内申点と課外活動実績、面接、小論文で前橋高校には受かりました。
今はわかりませんが、当時の群馬県の公立高校入試は前期・後期と2度チャンスがあり、前期は主に非学力試験、後期は学力試験+αという構成でした。そのため、ワンチャンに賭けて強気の出願をする生徒も多く、難関校ほど前期試験の倍率が高くなっていました。
・高校生時代
そんなこんなで前橋高校に入学しましたが、いろんな面で大きな転機を迎えました。今の私は、間違いなくこの3年間がベースとなって形成されています。
・勉強
それまで勉強=やらなくてもできるものだったのが、挫折しました。入学テストでは高校1年の1学期の範囲が一部出題されたのですが、入学前課題をサボったこともあって、5教科合計282/320位でした。数学に関しては10/100点でドベ2だったのです。英語は20位台だったのにですよ。
いかに自分が井の中の蛙だったこと、上には上がいることを痛感した瞬間です。
そしてそれをきっかけにすることもなく勉強モチベーションもなくなりました。後述しますが帰宅部だったのもあり、1年生の時は遊び散らかしていました。
結局、勉強モチベが復活したのは、一番仲良くなり学力も同じくらいだった友達が2年生のときに突然難関大を目指すと言うようになったことがきっかけでした。彼とはそれぞれ別の場所で一浪して同じ大学に入り、今でも最も仲の良い親友です。
・課外活動
小中時代の激務とは反対に、高校では帰宅部でした。理由は2つあります。
1つは、当初サッカー部に入る予定だったものの親の反対にあったことです。親の言い分としては、まだ私の学力を疑っていたのでちゃんと勉強させたかったとのことです。家から高校まで自転車で行きは40分、帰りは2時間かかるので、部活後疲れて帰ってきて勉強をする時間も気力もないと思われていました。
(山麓に住んでいて、行きは自転車でずっと下り、返りはずっと上り+群馬特有の空っ風というやつで向かい風によって、行き帰りでここまで差が出るのです)
サッカー部に入っていた世界線はわかりませんが、おそらく親の考えの通りになっていたと思います。ちなみに弟は、状況は違えど後に同じ高校でサッカー部に入っています。
もう1つの理由は、和太鼓に集中したかったということです。
中学で和太鼓のコンクールで2度の県大会優勝と1度の準優勝、3度の全国大会出場を経験しましたが、全国大会で入賞するという目標は達成できていませんでした。また群馬県大会のレギュレーション上、県大会で優勝すると翌年は模範演奏枠になり、コンクールで順位が付かない(=全国大会への挑戦権がない)という事情がありました。中3で県大会優勝・全国大会出場しており、高校2年の大会が最後の大会になることはわかっていたため、全国大会で入賞するためにサッカー部以外のゆるい部活も含めて入りませんでした。
結果、先述の通り高2で全国大会入賞できたので、間違っていなかったと思います。
また、和太鼓経験を理由に、打楽器奏者が不足していた吹奏楽部に期間限定助っ人として入部し、数十年ぶりの金賞(ダメ金てやつです)受賞にも貢献するなど、自分の通常の思考・選択ではあり得ない経験もできました。
その後、吹奏楽部の顧問から、「和太鼓より吹奏楽を優先しろ」という言葉と共に腹にグーパンを食らったので吹奏楽部からは飛びました。笑
・人間関係
前橋高校に入ることで得た最大の財産と言ってもいいのが、高校での人間関係です。
私の高校は男子校であり、陽キャ集団はありましたがイジメはありませんでした。スクールカーストはあったかもしれませんが、よほど性格に難がある人以外はその垣根を越えて仲良くしていました。
また、高校でありがちなサッカー部や野球部に陽キャが多いという事象と、漫画やドラマでありがちな帰宅部やヒマ部活が一番最強で陽キャだという事象が並立していました。
なので帰宅部だった私は自分で言うのも気が引けますがノリは良かったので、そういった陽キャ集団の一員として遊んだりふざけたり調子に乗ったりしていました。
高校生活が良い思い出になったのも人間関係のおかげだし、彼らとは今でも定期的に集まって飲みに行っています。
高校でのエピソードはあまりに濃く面白いので、ひとつ一つ記事にしていきたいと思います。
・中央大学時代
現役ではここの法律学科と明治の商学科にしか受からず、どっちが良いのかわからず親の言いなりで前者に進学しました。元々浪人するつもりでしたが、それも反対されました。
本当は、なんとなく商学のほうが興味ある気がしていた(落ちたほかの大学はすべて商・経済系学部しか受けていませんでした)のと、より都心にあるという憧れから、明治に行くものだと思っていました。(当時の中央大の文系はすべて八王子の山奥)
ちなみに、なぜ中央だけ法学部だったかというと、これもまた他人の言いなりです。
前述の通り、元々クソバカだったので大学の難易度順をよく知らないし、本気で受験に向き合う頃には一橋しか考えていなかったので、他の大学にあまり興味がありませんでした。
センター試験後の進路希望調査の出願リストに「中央大学商学部」と書いて出したら、三者面談時に担任に法学部に変えられました。
担任「中央で一番難しい学部って知ってるか?」
私 「医学部ですか?」
担任「中央に医学部なんかねーよ、法学部だろ?」
私 「そうなんですね。じゃあ商学部ならさすがに併願として安全圏ですか?」
担任「いや、法学部でいけ。お前なら当日熱出てもいける。」
私 「はぁ。。。」
という感じで出願学部が変わりました。
いざ中央大に行くと、駅伝の実績で同じ法律学科に進学してきた幼小中の同級生と、一般受験で政治学科に来た中学の同級生がいて、文系全学部で見れば高校同期も数人いたので安心しました。
しかし、内部進学や各種推薦が非常に多く、なんとなく私は馴染めませんでした。入学方法に関係なく大半はいい人ではあるのですが、考えていることや目指していることなど、ズレを感じていました。なので結局仲良くなったのは国立落ちばかりでした。
それでも田舎の大学に来た運命、学生生活を楽しもうと、サッカーサークルに入ってみました。居心地は悪くなかったです。
で、ほどほどにサッカーをしつつ、当時は法律にも興味が湧きましたがそれ以上に外国語を頑張り、一橋の得点開示を見て受験勉強を再開し、1年後期のGPAを確認して退学しました。
1人暮らしなので家事全般をしつつ、大学ではフル単GPA3.5、サークルの練習も試合も合宿もサボらず、受験勉強もしていたので、合格したときは涙が出ました。
親には夏ころに仮面浪人はバレていましたが、電話で合否を伝えたら電話越しでもわかるくらい泣いてました。
また、先述の高校時代からの友人と、さらに共通の友人1人も一浪で一橋に受かっており、3人で祝勝会とかやりました。
・一橋大学時代
一橋では商学部に入学しましたが、勉強の他にも興味を持てるものが多く、仮面浪人時代よりもGPAは全然低かったです。(周りのレベルが違うのもあるかもですが)
ただ、興味があった授業、おもしろい授業も多く、他学部の授業も何単位か取得義務があるので、様々な勉強ができて良かったです。
そもそも、私が大学進学した理由は「進学校だから」という単純なものではありませんでした。一方で、明確にやりたい勉強があったわけでもなく、何となく商学っておもしろそうだなあ程度でした。
ではなぜ大学進学を選んだか、なぜ一橋を選んだか、その目的は「都会に出ること」と「人脈形成」、「将来の不安を払拭すること」の3つでした。きっかけは中学の頃にさかのぼります。
先述の通り正直めちゃくちゃ田舎の中学でイジメに遭ったことで、こんな極小閉鎖空間なんか出て行ってやるというマインドになりました。都会に出れば世界の大きさを痛感でき、様々な学びや経験を得られ、すごい人たちと接点が持てると考えていたのです。
また、昔から両親からは「うちは貧乏だから」といい聞かされており、まともな生活を送るには思っている以上のお金が必要だと不安になっていました。お金を稼ぐにはいい大学に行く、そのためには優秀な高校に行く必要があるんだという、こちらも単純な考えです。(今思えば割と裕福な部類の家庭だったはずですが、子育ての観点でそう言い聞かせていたのだと思います)
高校生になっても基本的にこの考えは変わらなかったので、自身の実力と大学の特色を鑑みて一橋を志望校にしていました。
なので、晴れて一橋生になった私は、人脈作りがある意味一番の大きな目的でした。
(都会に出るは一定クリア済、一橋の就職実績的に将来の不安払拭も多分クリアと思っていました)
そのため、横の繋がりもOB/OG含む縦の繋がりも強い体育会を選びました。
マイナースポーツの部活でしたが、歴史も長く比較的大所帯だったので適しているかなと思いました。未経験競技でしたが、競技としても所属団体としても楽しく、ここは正解だったと感じます。
また、3~4年次には学内の体育会の長を務めていたので、なかなかできない経験も財産になっています。
ちなみに、アルバイトは家庭教師と集団指導塾の講師をしていました。
家庭教師→勉強が苦手な子向け(ファミレスのトイレとかで宣伝してるようなやつです)
塾講師 →中学受験で圧倒的な成果を出している塾で社会科を担当
形態も、教える対象の子も全く異なるので、勉強法、指導法的なノウハウも身に付いたかなと思っていいます。
・前職(新卒入社の自動車メーカー)時代
当初マスコミ志望だった私は、就活で惜敗含む大連敗を喫し、なぜか卒業後は愛知県にいました。
ここでは総合職として、アフターパーツ(修理・交換用部品)の企画系業務に従事していました。上司や先輩にクルマに関する知識を評価していただき、先進プロジェクトの担当もさせていただいたり、大好きな旧車関連のプロジェクトを任せていただいたり、1年目としてはありがたすぎる経験をしました。今でも元社員/現部外者としていい会社だと思いますし、当時の上司、諸先輩方には感謝しています。そして仲良くなった同期の多くとは今でも定期的に会っています。(最近も前職同期の結婚式に招待してもらいました)
ただし、愛知というお世辞にも都会とは言えない環境、社外に知人が一人もいないことは正直しんどく感じました。さらに私は2部署しかない総合職オフィスへの配属、そしてその拠点の若手しかいない寮への入居指定でした。社内にも友達が少なく、また愛知出身者が多い会社であり数少ない友達も社外の人と遊ぶことが多く、私はとにかく土日がヒマでした。
また、大学の同期のほとんどは都内で働いており、初任給も私がダントツ最下位で、自分だけが何も得られていないと感じ悲しくなってしまいました。
繰り返しですが、会社としては本当にいい会社でした。これは今でも思います。
私の求めるもの、将来像と合っていなかっただけであり、
私の考えがもし違うものだったら定年までいたかった会社です。
そんなこともあり、当時から転職前提で入社しましたが、早い段階で転職を決めようと誓いました。
確実に成功させるため転職活動の肌感覚を得ようと、1年目の秋頃に数社受けてみることにしました。実力試し半分ということで、ビズリーチで連絡をくれたエージェントの紹介企業と直接連絡をくれた会社だけ5社、エントリーしてみました。(コンサル4社、FAS1社)
しかし、5社中3社(big4コンサル2社、big4FAS1社)で内定を頂けたため、戸惑いつつも転職を決意しました。
社会人だし、特に誰にも相談せずに完結させてしまったので、仲の良い友人にも親にも事後報告でした。友人は悲しんでくれながらも転職後を応援してくれ、今でも大切な存在となっています。
一方両親は、今でこそ関係良好ですが、転職報告直後は二度と帰ってくるなくらいのことを言われました。(社会人の、人に迷惑をかけない選択に対して文句いう筋合い無くね?とは今でも思っていますが)
昔から両親は自分らの常識の範囲にないことを忌避したり否定的に見る傾向があったので、転職、それも早いうちの決断があり得なかったのでしょう。加えて、誰もが知る世界的企業から、(同じく世界的なブランドではあるが、両親にとってはよく知らない)コンサル会社というのも理解できなかったのでしょう。
ただ、退職しても関係を続けてくれる同期や先輩がいるので、ここでも人脈形成という意味では一定の成果は得られています。
・現職
最終的に選んだ会社は第二新卒枠だったので、入社時から新卒と同じ扱いです。
やりがいもあり、ここでも同期・先輩に恵まれ、東京にも戻ってくることができました。
現在は次の転職を全く考えていません。今の自分には必要のないアクションです。
転職活動って、お試し半分で数社に絞っても大変だったので、もうやりたくないし。
前職での経験や知見を生かせる場面があったり、クライアントワークで日々成長を実感できたり。
自分という価値を求められ、少しずつ発揮できるようになり、充実しています。
身バレ防止と、会社に迷惑をかけることはしたくないので、会社のことや業務内容のことは記事にしないつもりです。その点だけご了承ください。
転職経験や、今の仕事をする上でのマインドや考えに関することは公開予定です。
仕事以外では、最近ある同級生と頻繁に会っている中で新たな挑戦を始めようとしています。それもある程度形になったら公開できればと思っています。(クリエイティブ関連です)
おわりに
以上、非常に長々と書いてきましたが、読んでくださった方、ありがとうございます。そしてお疲れ様でした。
いろんな要素を詰め込み倒しましたが、普段の記事ではトピック毎に記事にするので、もう少し簡潔に、読みやすくなると思います。
興味をお持ちいただけたトピックスなどあれば、コメントよろしくお願いします。
ありがとうございました。よろしくお願いします。
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