秋の食のパレード。
9月が秋という考えは、
天候面でみたら、もう捨てた方がいいのかもしれない。
連日30度超え、ジメジメ、扇風機やエアコンはまだまだ手放せない、秋のフルーツではなくアイスが食べたくなる。でも、秋の輪郭が表れてきているのも事実で。トンボが飛び交い、稲刈りが進み、かぼちゃや梨、キノコ類がスーパーで手に取りやすくなっている。
前回のラジオでも話したけれど、夏が延び、冬との間にはさまれた「秋」という季節は、自分たちで手に取りにいかないと、感じにくくなっているのかもしれない。
昨日が十五夜、今日は満月。
残念ながら月は見えないけど、ちょっと前にキレイな月が見えて、だんだんまんまるに近づいてるなと思った裏側で、小学生くらいの頃、母に「今日は満月だよ、今日は三日月だね」と言われたのを思い出す。母が言っていたわけではないけど、季節の移ろいを大事にしてほしかったのかもしれない。十五夜に団子を用意してくれたり、冬至にかぼちゃや冬瓜が入った料理が出てきたり。あまり意識していなかったが、「季節」という色が滲み出る文化を、自分は大事にしているのかもしれない。
仕事が終わり、会社から祖母の自宅に顔を出すと、秋を感じたくてサンマを買ったという話に。「そのサンマがすっごく小さかったの。一匹多めに焼いたから持っていて」という言葉に甘え、家に持って帰る。
サンマ焼いてくれてるのシンプルにありがたい…と思いながら、以前ラジオで相方だったみどりちゃんが「桃持ってきてくれるじゃなくて、桃剥いてきてくれるってすごいですね」と話していたのが重なる。
帰宅して冷蔵庫をあけてみると、安売りしていたさつまいも、友人のおじいちゃんが作っているきゅうりを使ったサツマイモサラダに、特大サイズの梨。上段のラックには、ヤマザキのみたらし団子に、足久保のお茶たちがスタンバイしていた。「秋の食のパレード」がはじまると、いよいよ秋のスタートだ。
一人暮らし10年目。帰宅するとご飯が用意されていて、洗濯機に脱いだ服を入れておくと次の日には干されている、朝少し遅めに起きるとリビングの掃除をしている。実家暮らしのときは、当たり前のように母を中心に家事をやってくれていた。その当たり前を自分でやらなくてはいけなくなったこの10年、これをやるのは一人暮らしでも誰かと暮らしても変わらないでしょというスタンスが、自分の新たな当たり前に変わった。
でも、当たり前をほぐすことができると、日常で感謝の気持ちが芽生えやすくなる。そうなれば、特別なことではないごく普通のことに、幸せを感じやすくなるのかもしれない。
松浦 弥太郎さんの「あたらしいあたりまえ。」を読む中で、こんな表現があった。
どうしても、もっとこうしてほしい、こうなったらいいなという"もっと"という欲が出てしまうからこそ、「何もなくても大丈夫」というおまじないをかけながら、自分を満たしていけばいいし、考え方や視点の置き方次第で、日々を楽しいものにできるような気がするんだよな。自分に厳しくなってしまうから、たまに自分で自分を苦しめちゃうときがある。そんなときは、食のパレードに乗っかって、美味しいものをいただくという幸せを拾っていきたいものです。