『化け猫あんずちゃん』を見る――トイレ考――
皆さま、こんにちは。ノラと申します。先日、『化け猫あんずちゃん』というアニメ映画を見たのですが、本当に素晴らしかったので、その感想を共有したく思い、記事を書きます。
『化け猫あんずちゃん』というアニメ映画には、母親を亡くした少女が母親に別れを告げ、母親の死を受け入れるという大筋の物語があり、そのあらすじにもとても心動かされるのですが、それとは別にキャラクターたちの細かな振る舞いも印象に残ります。
「スイカ食べる?」と化け猫のあんずちゃんが、主人公の少女である、かりんちゃんの部屋にやってきた際に、「いらない」とかりんちゃんは答える。ですが父親とも離れた、かりんちゃんは本音を隠しながらしか生きていくことができない少女なので、そこをあんずちゃんは見抜いているか見抜いていないのかはわからないですが、そっとテーブルの上にスイカを置いて部屋から去っていきます。
このように丁寧につくられたアニメ映画だからこそ、キャラクターたちの細かな立ち振る舞いが印象に残ります。
それに少女のかりんちゃんを取り巻くシリアスな状況が提示されます。(かりんちゃんは母親を亡くし、父親とも離ればなれになってしまいます。)ですが不思議と笑えるシーンがこの映画には散りばめてあります。
例えばあんずちゃんの自転車が盗まれたあと、あんずちゃんはブチ切れて、お手製のヤリを作って障子紙を突きまくるシーンは、劇場で私は思わず爆笑してしまいました。
さて、せっかく文章を書くのだから何か考察めいたことを述べておきたいと思います。
かりんちゃんは亡くなった母親に会うために、地獄に行くのですが、その地獄の入り口はトイレに設定されています。トイレとは便を流し、穢れと祓いの意味作用をちょうどプラスマイナスゼロにする場所ではないでしょうか?そんなトイレから閻魔大王は現れ、生と死の帳尻をきちんと合わせ、死者が再び生きかえらないように目を光らせています。つまり地獄の王様である閻魔大王も生者と死者の数を管理し、祓いと穢れをちょうどプラスマイナスゼロにしている人物として描かれているのではないでしょうか?
おそらく、地獄の入り口がトイレに設定されていることと、祓いと穢れの帳尻を合わせるという閻魔大王の描かれ方とは関連していると思われます。
映画の冒頭で、かりんちゃんと父親は田舎の駅に到着するのですが、その父親は「うんこ」と言ってトイレに行きます。映画の冒頭で、地獄=トイレまで行く道行を暗示しているのではないでしょうか?
そして物語の終盤で、かりんの元に父親は帰ってくるのですが、その際にケガをしている父親は「うんこした後にケツを拭くのが大変だけどな」という台詞を口にします。ここで父親はうんこ=穢れを自ら祓うことができることが示され、閻魔大王の元に行かずとも、穢れを祓うことが可能になったことが示されているのではないかと思うのです。
このように考えたとき色々と合点がいく場面があります。
例えば、かりんちゃんの母親が結局地獄に帰ることになる場面では、かりんちゃんと母親は逆立ちをしながら別れます。逆立ちという身体操作は排便する姿勢と真逆の姿勢です。つまり逆立ちする、かりんちゃんと母親の身体には、穢れを生みださない=排泄しないという強い意志が織り込まれているのではないでしょうか?なぜなら穢れを生みださない=排泄しない限りは、地獄=トイレに行かなくて済むからです。別れ際、かりんちゃんの母親はかりんちゃんに「あなたは長生きするのよ」と語りかけますが、その地獄=トイレに行かない決意表明として、逆立ちをしているのではないでしょうか?(むろん、言うまでにないことですが、逆立ちするシーンはかりんちゃんの成長を確認する場面としても普通は読めます。)
化け猫のあんずちゃんは寺の庭で立ちションをしたり、オナラを連発したりします。トイレに行かないあんずちゃんの振る舞いは、生と死のあわいを生きる化け猫にふさわしい振る舞いではないでしょうか?
古来より日本文化では、女性の生理現象は穢れとして扱われてきましたが、この映画では排泄という行為こそが穢れを孕むものとして描いています。本作では、女性の生理現象に穢れをまとわせて表象したりしていないのです。しかも、かりんちゃんが初潮を迎えているかは秘密にされています。かりんちゃんが初潮を迎えているかを秘密にして、かりんちゃんに逆立ちさせるのは、この映画が提示したひとつの誠実な倫理だと私は考えます。
ずいぶん文章が長くなってしまいました。何かの話題のにぎやかしになれば幸いです。
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