NFTとアンディ・ウォーホル
2019年はアンディ・ウォーホルの生誕からちょうど90周年で、その年の暮れ、私は彼の特別展をみるためシカゴ美術館に来ていた。マリリン・モンロー、毛沢東、コカコーラなど「ウォーホルと言えば」というテーマは様々だが、中でも特に有名なのは「キャンベルのスープ缶」だろう。
1962年に初めてお披露目されたその作品は、スーパーマーケットに並び、人々が日々消費している赤と白の象徴的な缶詰をただリアルに描いただけの絵画で、しかもシルクスクリーンという工業的に大量生産のしやすい形で描かれた美術品だった。
抽象表現主義が主流だった当時の人々にとって、非常にセンセーショナルな出来事だったと言われている。
ウォーホルに代表される、大衆的・商業的テーマを扱う分野はポップアートと呼ばれ、大量生産、大量消費文化に対するカウンターカルチャーとしてしばしば語られるが、こと、ウォーホルに関して言えば、彼はただ当時の現代社会を肯定的に捉え、その日常を賛美していたと言われている。昼食にキャンベルのスープを食べ、コカコーラを飲み、仕事帰りには好きな有名人の出演する映画を見に行く。そういう日常を肯定していたし、愛していた。
時を現代に戻して、今はデジタルネイティブの時代である。安価で安定した高速通信網と大小様々なモバイルデバイス、デジタルカメラ技術の躍進によって、人々は常につながり、リアルタイムに世界の出来事を知り、友人の居場所を知り、行ったこともない旅行先の名物に詳しくなる。閲覧データは統計的に処理され、ランキングが提示され、さらにAIは「あなただけ」のおすすめを「あなたのような人」を測るためのアルゴリズムの計算結果によって提示してくれる。その結果、人々は同じものをみて、同じものに憧れ、同じものを消費している。InstagramやTikTokが届ける「なりたい顔」が、世界中に同じ顔の若者を増やしていると言われる。
デジタルは、個々の発信力を高めたが、一方で我々の価値観に対しては、より均質化させる力を持っている。
デジタルデータは、場所と時間とを問わず瞬時に同期され、コピーされ、交換される。だから急速に普及し、流行をつくり、世界をフラットにしていく強い力を持っている。デジタルなるものには、オリジナルとコピーとの明確な区別はない。区別をつけることが困難だからである。あるいは類似したもの、同じものを簡単に作り出すことを可能とする。
NFT( Non-Fungible Token) はそのような状況に一石を投じる技術であろう。NFTを持つデジタルデータは、それが唯一の非代替的データであることを公的にうたうことが出来る。そこで特に、デジタルで描かれた美術品(=ファインアート)への適用が急速に進んでいる。
だがここで少し考えてみたい。ファインアートにNFTは必要だろうか。
ウォーホルがキャンベルのスープ缶を描いていた1960年代、スープ缶そのものは工業製品であり、そこにオリジナルという考え方はなかった。ウォーホルの作品自体も、シルクスクリーン技法を用いており、極端な言い方をすれば、作者たるウォーホルがいてもいなくても、大量に彼の作品を「生産」することが可能である(実際、彼はファクトリーで労働者を雇用し、工業的にファインアートの生産を行った時代がある)。
デジタルコピーは、シルクスクリーン以上に簡単かつ効率的な大量生産、大量消費を可能とする。しかし私たちの日常を彩り、動機づけ、満足させてくれるという点では、シルクスクリーンの版画も、インターネットで見つかる画像にも同じ価値があるはずである。本質的にコピーが容易で、オリジナルとの区別がつきにくいものに、わざわざブランドを押すことの価値はなんだろうか。少なくともウォーホルは、大量生産され、消費されるという現代的価値観を肯定的に捉えていたし、デジタル技術はそうした現代社会の傾向と合うものだったし、ゆえに、ここまでの急速な発展を遂げている。
複製され、消費されるのは悪だろうか。高い教養や深い知識がなければ、それについて自由に語ることも許されなかった抽象表現主義の時代と、我々はどちらの世界を望むだろう。
もしウォーホルが現代に生きていたら、彼は何をするだろうか。
NFT作品の証明書を模って並べ、大量のシルクスクリーン印刷をばら撒くような気がしてならない。そしてその大量の印刷物に、我々は対価を支払って購入するのだろう。それは紛れもないコピーの消費だが、我々は知っているのである。ファインアートの価値は、オリジナリティにあるのではない。系譜を知り、教養を持つことがその敷居をまたぐ権利ではない。ファインアートは、価値観の提示であり、問いの投げかけである。その考え、概念そのものが存在意義であり、ある人にとっては価値をもたらすのだということを、我々はすでに知っているのである。
ウォーホルは、こんな言葉を残している。
「Art is what you can get away with(アートは何したって自由なんだ)」
インターネットが開放した表現の場に、新たな制約が必要だろうか。
素晴らしいものを認め、共感を表明し、あるいは議論をかわすような公平で自由な場をいかにして維持していくか。ウォーホルの残してくれたものと共に考えたいテーマだと思う。
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