歴史メモ:8月15日 八一五事件、玉音放送
日本の心を照らします🌞
鉄舟です
8月、戦争関係の記事を書いていってます。
目的はこちらに書きましたので、ご興味あればご覧ください。
さて、昭和20年 (1945年) 8月15日は、終戦の日として記憶されてますね。
この日が終戦の日とされた経緯は何なのか、この日に何があったのか、調べた範囲で書きます。
日本降伏までの流れ
昭和16年(1941年)12月8日
真珠湾攻撃にて大東亜戦争が開戦。
日本軍は南方作戦を進め、フィリピン、インドネシアなどをアジアの広範囲を勢力下に置いた。
昭和17年(1942年)6月
ミッドウェー海戦にて日本軍大敗。以後、米軍優勢となる。
同年8月〜昭和18年(1943年)2月
ガダルカナル島の戦い。日本軍2万人以上が戦死。多くの陸軍兵士は餓死した。
昭和19年(1944年)6月
マリアナ沖海戦にて日本軍大敗。サイパン島を占領され、絶対国防圏が破られる。米軍はサイパン島からB-29による本土空襲が可能となった。
同年10月
日本海軍がフィリピンで米軍と交戦。初の特攻作戦を敢行する。
幸か不幸か、予想外の戦果を挙げ、特攻作戦が通常作戦に組み込まれるようになる。
この戦いで、日本軍兵士は50万人以上が戦死。
昭和20年(1945年)2月
米英ソの三首脳が戦後処理について話し合う。(ヤルタ会談)
ドイツ降伏から90日以内にソ連が対日参戦、南樺太と千島列島がソ連に引き渡されることが密約として交わされる。
同年3月
硫黄島陥落。米軍は、当時の兵力差を考慮して3日間で占領する予定だったが、1ヶ月以上を要した。
日本軍は1万8000人以上が戦死したが、徹底抗戦し、死傷者数は米軍の方が多くなる結果になった。
米軍は硫黄島を占領したことで、サイパン島から本土空襲に向かうB-29の護衛機を出撃させられるようになる。
東京大空襲など、本格的に空襲が行われるように。
同年4月1日
米軍が沖縄に上陸。戦いは三ヶ月ほど続いた。
民間人の死者9万4000人、日本軍兵士の死者9万人以上、うち6万6000人は沖縄以外の出身の兵士。
戦艦大和の参戦および沈没、2800人以上もの特攻隊員の散華など、残る兵力を以て死力を尽くしたが、陥落した。
同年5月
ドイツが降伏。連合国と戦闘継続している国は日本だけとなる。
国民の戦意喪失を目的として、米軍による本土空襲は継続的に行われた。
北海道から沖縄にいたる163都市が被害を受けた。死者は50万人以上と推計されている。
同年7月12日
日本はソ連に終戦の仲介をしてもらえるよう、ソ連に打診する。
米国は暗号電報を傍受、解読し、日本が和平に向けて本格的に動き始めたことを把握。
同年7月12日
米国で初の核実験が行われ、成功する。
翌日、米英ソ三首脳で会談が行われる(ポツダム会談)。
ソ連が8月15日に対日参戦することを約束する。
同年7月25日
前日に核実験の詳細を知った米国大統領のトルーマンは、この日、日本に原爆投下を命じた。
翌日、日本に対する降伏勧告のポツダム宣言が発せられたが、天皇の地位の保障を明文化せず、意図的に日本が降伏しづらいようにされていた。
同年8月6日
広島に原爆が投下。
同年8月9日
ソ連対日参戦、長崎原爆投下。
同年8月10日
日本政府がスイス政府とスウェーデン政府を通じてポツダム宣言受諾を電文で通知。電文には、天皇の地位の保障を確認する文言が含まれていた。
米国のバーンズ国務長官から、天皇の地位を保障する旨の返答が届く。
ただし、表現がわかりづらく、本当に天皇の地位が保障されるのか、陸海軍の間で意見が分かれた。
同年8月14日
宮中で御前会議が開かれる。大論争となり、昭和天皇の御聖断が下り、ポツダム宣言受諾が決定した。
同年8月15日
徹底抗戦を求める陸軍青年将校がクーデター計画を実行(八・一五事件)。
玉音放送の予定を知った叛乱将校らが東京放送局(元NHK)を占拠するも、東部軍(陸軍の一部)によって叛乱は鎮圧される。
正午に玉音放送が流れる。
終戦の難しさ、八・一五事件から思うこと
今を生きる人にとって、「アメリカと戦争したなんて日本は馬鹿だった」と思う人がいるのかもしれません。
「敗戦が濃厚になったのであれば、さっさと降伏なりなんなりして終戦すれば、もっと被害少なくできたのに」と思う人がいるのかもしれません。
いろいろ調べていくと、そんな簡単なものではなかったことがよくわかります。
当時、アジアは欧米の植民地でした。
人種差別は当たり前でした。
世界で初めて人種差別撤廃を国連で提案したのは日本でした。
しかし、採択されることはありませんでした。
徐々に、日本は世界の主要国から厳しい制裁を受けることになります。
ABCD包囲網によって石油が入らなくなり、降伏しなければ国を滅ぼす、というメッセージに近いハルノートがアメリカから届きます。
たとえ負けることがわかっていても、ここで戦わなければ、永遠に奴隷になってしまう。
ならば、アジアを救い、勇敢に戦った証を子孫に残そう。
そのような思いで、戦争に踏み切りました。
政府の上層部の人間がどれほど本氣だったかはわかりません。
責任をとらず、逃げる人も多かったようです。
しかし、現場の人間の多くは、本氣でアジアを救おうという思いで戦いました。
インドネシアでは、終戦後も現地に残り、現地の人と一緒に独立戦争を戦いました。
3000人もの元日本軍兵士が、その戦いで命を落としました。
インドでも、インパール作戦など、多くの日本兵士がインドの独立のために命を落としました。
戦後、水不足や干ばつにあえぐ人たちのために、「アジアを救え」という父の言葉を頼りに、杉山龍丸という人が、インドで植樹活動を死ぬまで行いました。
彼は、独立の父ガンジーとともに、緑の父と呼ばれているそうです。
アジア、という遠いことを考えていなくとも、多くの日本人が、家族のため、後世のために、大好きな祖国をつなごうとして、散りました。
当時の政府上層部は、本当に、杜撰というか、国民の命を軽視していたように思います。
しかし、現場の人たちは、本氣で、アジアのため、あるいは国や家族のために戦い、ようやく今の世界があります。
彼らの戦いがなければ、人種差別を悪とする、今のような世界はなかったと思います。
ただ、その「戦う」という意志が、狂氣じみたものにもなり、終戦を遅らせて死者が多くなったという側面も、事実と思っています。
終戦の手続きは、とても慎重に行われました。
クーデターの危険性が高かったからです。
8月15日にも、未遂に終わりましたが、クーデターが決行されました。
当時の阿南惟幾陸軍大臣が、必死に青年将校たちをなだめつつ、徹底抗戦派でいるフリをし続けたことで、青年将校たちが叛乱を起こすのを止めていました。
ポツダム宣言受諾が最終決定された後、阿南大臣は、切腹して命を絶ちました。
文字通り、一人の人間が、命を賭けて、終戦の手続きを無事に終えることができました。
戦争は、一度はじめたら終えることが難しいことを感じさせられます。
戦争は、その最中も、終戦の際も、多くの人の苦労や犠牲が存在していたこと、それは忘れてはならないことのように思います。
八・一五事件については、「日本でいちばん長い日」という映画がすごく分かりやすいので、ぜひご覧ください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
参考文献、webサイト
・竹田恒泰 他、「令和元年度文部科学省不合格教科書」、令和書籍、令和2年、p270-288
・竹田恒泰著「天皇の国史」PHP研究所、令和2年、p539-564
・百田尚樹著、「『新版』日本国紀(下)」、幻冬舎文庫、令和3年、p217-247
・東京大空襲:時事ドットコム 令和5年8月15日閲覧