歴史メモ:8月6日 広島原爆
日本の心を照らします🌞
鉄舟です
さて、照らすといっておきながら、戦争という、氣分が明るくなりづらいことを書く目的は、こちらに書きましたのでご参照ください。
8月6日は、広島に原爆が投下された日です。
原爆の日を覚えている人は年々減少しているようです。
2015年に行われたNHKの世論調査では、原爆投下の日を正答できた人は、全国3割を切っていたそうです。
かくいう僕も、歴史に興味を持つまでは原爆投下の日を正確に覚えていませんでした。
日本人として恥ずかしいとは思いながらも、意識していないとすぐに忘れてしまうので、定期的に思い出すことが大切だと考えています。
なので、「戦争のことを知らないといけないとわかってても、なかなか覚えられない」という方に向けて、広島原爆について書きます。
自分なりに調べた内容を書きますが、僕は学者でも歴史通でもありません。
ただ、「日本人として絶対に知っとかないといけない」という気持ちがあるだけの人間です。
細かい数字などは間違っている部分があるかもしれません。ご了承くださると幸いです。
末尾に参考にした情報を載せてますので、より詳しく知りたい方はそちらをご参照下さい。
広島原爆の概要
・昭和20年 (1945年) 8月6日 8:15
広島県広島市に、人類初の原爆が投下された。
・昭和20年末までに14万人の死者、
後遺症で亡くなった方も含めると、21万人。
(当時の広島市の人口は35万人)
・当時の広島市の建物の9割が壊滅的被害。
・原爆の悲劇を風化させないために、平和記念公園を設立。
ウラン型原爆リトルボーイ
原爆は、原子爆弾の略で、ウランやプルトニウムの核分裂反応を利用した爆弾のことです。
広島には、ウランを使用したリトルボーイという名前の原爆が落とされました。
この爆弾は、高度約600mで爆発、数百万℃の直径400mにもなる火球を発生させました。
火球の影響で、爆心地は3000-4000℃に達し、その熱放射による影響は、爆心地から3.5kmにも及びました。
太陽の表面温度が6000℃、鉄が溶ける温度が1500℃であるので、原爆による熱がいかに凄まじいものか、想像できるかと思います。
その上、放射線による被害もあります。
放射線を浴びた人は、吐き氣や食欲不振などから、白血球や赤血球の現象など、さまざまな症状を示す急性障害が起き、それらが落ち着いた5ヶ月以上経過後、ガンをはじめとする晩発性障害が発生します。
11歳で被爆し、35歳でガンが出現する、といった例もあったようです。
原爆投下までの経緯
なぜ、アメリカは日本に原爆を落としたのでしょうか。
竹田恒泰さんの「令和元年度文部科学省検定不合格教科書」をもとに、原爆投下にいたるまでの経緯を追います。
昭和20年 (1945年) 2月、アメリカ、イギリス、ソ連の三首脳でヤルタ会談が行われました。
当時、連合国と戦っていたのはドイツと日本で、ドイツも連合国に対して敗北を重ねていました。
そんな状況で行われたヤルタ会談では、戦後処理について、ドイツ降伏から90日以内にソ連が対日参戦すること、南樺太と千島列島はソ連に引き渡されることなどが内密に決められました。
4月にヒトラーが自殺、5月にドイツが降伏しました。
ソ連の対日参戦が近づきましたが、ヤルタ会談の内容を知る由もない日本は、ソ連に終戦の仲介をしてもらおうと考えていました。
アメリカは、日本の暗号電報を傍受、解読していたので、日本が和平に向けて本格的に動きはじめたことは、当時の大統領のトルーマンも知っていました。
7月16日、トリニティー実験と呼ばれる、人類史上初の核実験がアメリカで行われ、実験成功の報せがトルーマンに届きました。
その翌日、アメリカ、イギリス、ソ連の三首脳が戦後処理と対日戦争終結について、ポツダム会談が開かれました。
トルーマンは、スターリンがヤルタ会談での約束通りに、実際に対日参戦するのかが氣がかりでしたが、スターリンは8月15日までに参戦することを約束しました。
7月21日、核実験の詳細がトルーマンのもとに届きました。
大統領の周囲の高官は、原爆を使用しても日本は降伏しないと分析していました。
東京をはじめ、66の都市が空爆されているにも関わらず、日本人の戦闘意欲は失われていなかったからです。
当時のアメリカにあった対日戦争終結の選択肢は、本土決戦して軍事制圧すること、天皇の地位を保証すること、ソ連が参戦することでした。
ソ連は参戦することを約束していたので、ソ連参戦を待てば日本は降伏するはずでしたが、トルーマンは原爆の使用にこだわりました。
もし、ソ連参戦前に原爆投下により日本が降伏した場合、ヤルタ会談で取り決めたソ連の権益を無視することができるからです。
スターリンは、アメリカが原爆の開発に成功したことを知ると、対日参戦の日を前倒しにしました。
ソ連参戦とアメリカの原爆投下、どちらが先になるのか、二国間で競争が始まりました。
7月25日、トルーマンは、天候が良くなり次第、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに1つ目の原爆を投下すること、2つ目の原爆は、準備ができ次第、他の候補地に落とすことを口頭で命じました。
4つの候補地は、元々、原爆の効果を観察するために、ほとんど空爆していませんでした。
2つの原爆は、同時に投下命令が出されました。
7月26日、ポツダム宣言が日本に対して発せられました。
この宣言は、日本に対する降伏勧告でした。
当初、天皇の地位を保証する文言がありましたが、原爆投下前に日本が降伏しないために、直前になって削除されました。
実際、日本は天皇の地位の保証は終戦の絶対条件と考えていたため、政府と統帥部で大論争となりました。
7月28日、当時の日本の鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を「重視する要なきものと思う」と述べたことを、朝日新聞が「政府は黙殺」と掲載し、世界メディアは「日本はポツダム宣言を拒絶した」と報じました。
1つ目の原爆は、7月31日に準備が整っていましたが、台風接近のために日程をずらし、8月6日に広島へ原爆が投下されました。
被害は、既に述べた通りです。
この日、トルーマンは、「戦争を早く終わらせてアメリカ人の命を救うために原爆を投下した」という旨の声明を出しました。
原爆投下後、日本政府内で終戦の手続きは進みませんでした。
あくまでも、ソ連を通じた和平交渉にこだわりました。
ポツダム宣言の中に、天皇の地位の保証がされていなかったからです。
この後どうなったかについては、また別の記事に書きたいと思います。
最後に
みなさんは、原爆投下についてどう思われますか?
学校では、「日本が悪いことをした、新兵器によって戦争を早く集結させるために、原爆投下は仕方ない側面もあった」というイメージで教えられなかったでしょうか?
大人になって、自分で歴史を調べるようになって、原爆投下はただの実験的なものだった、緊急性や必要性はなかったことを知りました。
広島平和記念公園に、写真のようなモニュメントがあります。
この、「過ち」とはなんなんでしょうか。
終戦時の東京裁判で日本を擁護した、インド人のパール判事は、この碑文を見て、「原爆を落としたのは日本人ではない。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない」と批判しました。
心を骨抜きにし、民族を弱らせる効果的な方法の一つが、正しい歴史を伝えないことです。
世界の、植民地支配の波に抗った先人の歴史は、確実に繋いでいかないといけないと思っています。
戦争のことを自分で勉強し、全部が全部とはいいませんが、我々の先祖が、世界から尊敬されるような人たちであったこと、大切なものを守るために戦ったことを知り、誇りに思うようになりました。
それから、しんどいことがあっても、戦争の時代、あるいは戦後復興を成し遂げた人たちに比べたら、自分の苦労なんてちっぽけに思えるようになり、これが忍耐力の源泉のようなものになっています。
学校では教わらなかった歴史の記事も書くことで、読者様の心の糧になるような情報を発信できていれば幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
参考文献、webサイト
原爆投下までの経緯
・竹田恒泰 他、「令和元年度文部科学省不合格教科書」、令和書籍、令和2年、p278-284
・百田尚樹著、「『新版』日本国紀(下)」、幻冬舎文庫、令和3年、p240-242
・竹田恒泰チャンネル2 『竹田学校』歴史・全講義
https://www.youtube.com/playlist?list=PLlZKROf1QRyHjCZwz5S_ZQeEW_jYITKDI
原爆の被害について
・https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/9399.html
・https://www.hiroshima-u.ac.jp/gensai_iryo/aboutradiation/about/effects
・https://nagasakipeace.jp/search/listen/talk/hibakusha_02.html
原爆のメカニズム
・https://www.youtube.com/watch?v=wo7KJ3JZ3-0
パール判事の言葉
・https://www.sankei.com/article/20160406-H5FF3CRRB5LDPHX3FYUJ3Q2FIU/