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樋口季一郎記念館

こんにちは、こんばんは。鉄舟です。

北海道一人旅、意外とハードだったので、終了してから記事を書いています。

北海道旅2日目は、樋口季一郎記念館に行きました。


樋口季一郎記念館は、その名の通り樋口季一郎という人物の展示館のようなものです。

場所は、石狩当別というところで、札幌から車を使えば1時間ほどでいける場所にあります。

公共交通機関では行けない場所にあり、最寄りの当別駅からは車しか交通手段がありません。

元々は札幌でレンタカーを借りたかったのですが、予約いっぱいで借りれなかったので、当別駅でレンタカーを借りて向かいました。


樋口季一郎記念館は、今年で3年目に入るという、比較的新しい施設になります。
元々建築業に携わっていたご夫婦が、ある古民家を知人から譲ってもらい、その古民家に併設されていた蔵を有効利用しようとしてできたんだそうです。

樋口季一郎とはどのような人物か、説明は後述しますが、一言で言えば、彼がいなければ今の北海道はなかったと言っても過言ではない、そんな人物です。

それほど北海道にとって大切な人物ではありますが、北海道ではあまり知られていないそうです。

先述のご夫婦、特に旦那さんが、樋口季一郎は北海道の人たちにはぜひ知ってもらいたい、という思いで、樋口季一郎記念館として蔵を有効利用したそうです。

ちなみに、蔵ではなく古民家は、古民家Soliという宿泊施設となっています。

現地に到着してみると、ネットの情報通り、田んぼに囲まれた古民家の隣に、「樋口季一郎記念館」と書いてある建物がありました。

樋口季一郎記念館


想像より一回り小さくて驚きましたが、こじんまりした歴史を感じさせる蔵の外見が、歴史を重んじつつも多くを求めない、人道主義者の性格を表しているかのように思われました。


ちょっと早く着いたので、草刈りをしていた氣さくなおっちゃんと少しおしゃべりした後、記念館を管理している方に簡単な説明をしてもらい、じっくりと見学させていただきました。

樋口季一郎

ここから、樋口季一郎について、説明致します。

樋口季一郎
引用元  https://www.sankei.com/article/20210412-ONGZPDIYPJLURJOGYCVFA4TCN4/?outputType=amp

1888年 (明治21年) に淡路島阿万村で生まれ、陸軍軍人として、ウラジオストク、ポーランド、満州ハルピンなど、太平洋戦争が始まるまでは主に海外の任務に従事していました。

海外生活の中でユダヤ人と深い交流が生まれ、第二次世界大戦前夜には、ドイツの迫害から逃れたユダヤ避難民の満州国通過の許可を東條英機からもらい、「ヒグチ・ルート」と呼ばれる、脱出経路でもって4000人以上、一説には2万人のユダヤ人を救いました。 (オトポール事件)

支那事変 (日中戦争) で日中和平工作、ノモンハン事件では停戦に向けた努力などを経て、樋口は中将に昇進します。

そして太平洋戦争が勃発。ミッドウェー海戦前、日本軍は、陽動としてアリューシャン列島 (ユーラシア大陸と北アメリカ大陸のアラスカを結ぶ列島) のアッツ島とキスカ島を占領しました。

アッツ島、キスカ島の位置 
引用元
https://note.com/takamushi1966/n/naa907714daf3

このとき、樋口が北方の司令官となっていました。

ミッドウェー海戦の後、アメリカからの攻撃が勢いを増しました。

アッツ島を守備していた日本兵は2600余名、そこに1万1000名のアメリカ軍が、空母や戦艦など圧倒的な武器を伴って押し寄せました。

樋口は大本営に増援を願いましたが拒絶されました。日本軍のアッツ島守備隊は生存率1%という、文字通りの玉砕でした。

アッツ島の悲劇を繰り返さない為に、樋口はキスカ島の全軍撤退させることを決意します。

陸軍と海軍が協力したこと、アメリカ軍がキスカ島でも日本の守備隊は徹底抗戦すると思い込んでいたこと、撤退に都合のいい天候に恵まれたことなど、いろんな要素が絡み合ってキスカ島の全軍無傷撤退を達成します。1943年 (昭和18年) の出来事です。

この撤退はあまりにも見事だったので、後にアメリカ軍から「パーフェクト・ゲーム」と呼ばれていたそうです。


そのまま太平洋戦争が進み、1945年 (昭和20年) 8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して戦争は終結します。日本軍は武装解除を進めていましたが、3日後の18日、北からソ連軍が、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して突如攻めてきました。

大本営は戦闘行動の全面停止を各地に指示していましたが、樋口は、断固戦わねばならないとして、独断でソ連軍と戦うことを決定します。

千島列島の東端の占守島にて、ソ連軍の侵略を食い止めるべく戦い、日本軍の死傷者600名、ソ連軍の戦死行方不明者4500名と、日本軍は戦いを優位に進めていました。

占守島の位置
引用元 https://www.tohtech.ac.jp/topics/essay/13533.html


占守島の戦いは、開始から3日後の21日まで続き、また、樺太でも日本軍が必死の抵抗をしたため、スターリンは北海道占領を断念しました。

もし、このときソ連の侵略を阻止できていなければ、北海道だけでなく、東北地方や東京の分割統治も、スターリンは視野に入れていたそうです。
 

上述の、多くのユダヤ人を救ったオトポール事件、キスカ島の無傷撤退、占守島の戦いは、樋口が生んだ3つの奇跡と呼ばれています。


多少、事前に調べたこともありましたが、こうして展示を見たり、発信のためにちょっとずつ調べたりすると、より樋口季一郎という人物の偉大さの理解が深まりました。

樋口季一郎記念館グッズ

樋口季一郎記念館には、樋口のことをわかりやすく描いた薄い漫画や、記念館にまつわるDVDが売ってました。

この漫画がとても読みやすくわかりやすく、樋口が多くの優秀な部下に支えられていたことを新しく知ることができました。

功績だけ見ると、あまり悩まずに決断できる人なのかなと思ってしまうのですが、独断でユダヤ人の通過を許可する際には、大いに悩んだそうです。

悩んだ末に、人道を重んずることを選び、決めたら迷わずに突っ切っていた、そんなことを漫画から読み取ることができました。

この漫画はすごくおすすめなので、記念館を訪れた際はぜひお買い求めください。

樋口季一郎の漫画


樋口季一郎記念館を訪れて思ったこと

樋口の功績は、樋口一人が築き上げたものではなく、部下の人達も含め、それぞれの立場で、自分のできることを全身全霊でやり、始めて成し遂げられたものだったのだと知ることができました。

記念館を運営しているご夫婦も、樋口季一郎という人物、より多くの人に知ってもらうことに対して、自分たちにできることを全力でやっていました。

大きなことじゃなくてもいい。自分のできることを、精一杯力を尽くしていく。使い古されてる言葉かもしれませんが、その言葉の意味をより深く理解できました。

樋口季一郎記念館に行って、感じるところが多かったので、来て本当に良かったと思っています。


樋口季一郎記念館のある古民家Soliという施設は、大人数は厳しいですが研修施設として利用可能で、庭ではバーベキューができたりします。

利用の仕方はいろいろありますので、ご興味のある方は樋口季一郎記念館を訪れるとともに宿泊も検討されてみてください。

余談

樋口季一郎記念館を後にし、カシオペアの丘という謎の公園?に行きました。絶景ではありましたが、何故カシオペアなのか、全く意味不明でした。。。

カシオペアの丘からの景色
ちょっとてきとーに撮りすぎましたね…


このあと、車の電氣つけっぱなしで昼寝してしまい、バッテリーを上げてしまいました。。。

そのせいで乗ろうとしていた高速バスに乗れなくなり、予定変更して旭川に向かいました。

22時半の旭川駅。近くのホテルは全部高かったので、カラオケまねきねこさんに泊まることにしました。。。まねきねこさん、本来一人では無理なフリータイムを特別許可していただいてありがとうございました。。。


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