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歴史メモ:8月9日 ソ連参戦、長崎原爆

日本の心を照らします🌞
鉄舟です

8月に戦争関係の記事を書く目的は、以下の記事をご覧ください。


さて、昭和20年 (1945年) 8月9日は、長崎に原爆が投下され、さらに北からソ連が侵略を開始した日です。

長崎原爆の方が認知されているとは思いますが、時系列的にはソ連侵攻の方が先で、長崎原爆投下が後です。

ソ連侵攻も同じ日だったことは、あまり知られていないかと思います。

連合国内の、ソ連対日参戦の取り決めや原爆投下までの経緯は、広島原爆の記事に書きました。

必要であればこちらをご覧ください。

歴史の経緯については、竹田恒泰さんの「令和元年度文部科学省検定不合格教科書」をメインに参照しています。

ソ連侵攻

日本とソ連は、日ソ中立条約が結ばれていました。

ソ連が1945年4月に同条約の破棄を通告はしていましたが、有効期間終了の1年前に破棄を通告しなければならないという条件から、1946年4月までは有効であるはずでした。

ソ連が侵攻してくるなど、日本政府は想像もしていなかったので、ソ連を通じた和平交渉の努力を続けていました。

しかし、ソ連はアメリカに対して、ヤルタ会談やポツダム会談で対日参戦を約束していました。

8月9日午前零時、日ソ中立条約は一方的に破棄され、約150万人のソ連軍は満州と朝鮮に攻撃を開始しました。

日本は、アメリカとソ連を同時に相手するとは考えておらず、満州に十分な兵力を置いていませんでした。

満州を守備していた関東軍はほとんど抵抗できずに敗北、10万人が死傷者、58万人が捕虜となり、シベリアに抑留されました。

午前十一時前から、宮中で最高戦争指導会議は行われました。

昭和天皇と、鈴木貫太郎総理大臣は終戦することを決意していました。

しかし、ポツダム宣言受諾において、天皇の地位を確認するだけでいいとする東郷外務大臣と、占領、武装解除、戦争犯罪人の処罰などの除外を条件とする阿南惟幾陸軍大臣が対立し、議論は平行線となりました。

閣議に持ち越され、8時間半の議論の末、議長の鈴木大臣は昭和天皇に御聖断を仰ぎ、条件をつけずにポツダム宣言を受諾することが決定しました。

8月10日、ポツダム宣言受諾の旨を、スイス政府とスウェーデン政府を通じて電文で通知しました。

ソ連との戦いは、9月5日まで続きました。

三船殉難事件、真岡郵便局電信局事件、シベリア抑留、占守島の戦いなど、ソ連との戦闘に関連する事件についても、今後記事に書いていこうと思っています。

長崎原爆

・昭和20年 (1945年) 8月9日 11:02
 長崎県長崎市に、2個目の原爆が投下された。
・死者7万3000人、重軽傷者7万5000人

長崎に投下された原爆は、プルトニウム型の「ファットマン」と名付けられたものでした。

ソ連参戦に伴って、終戦に関する会議が行われている間に、原爆は落とされました。

議論の内容に影響はありませんでした。

元々、原爆投下によって日本が降伏するとは、アメリカも分析していませんでした。

では、長崎に原爆が落とされた理由はなんだったのか。

理由は2点です。
・アメリカはプルトニウム型原爆の実験を行いたかった。
・第一候補地だった小倉が雲で覆われており、第二候補だった長崎に投下された。

当時、アメリカが保有していた原爆は、ウラン型とプルトニウム型1個ずつ、合計2個でした。

つまり、広島、長崎に落とされた原爆が、当時のアメリカが保有していた原爆の全部でした。

それぞれの威力が知りたかったために、ポツダム宣言の条件に天皇の地位の保証を明文化せず、日本が降伏する可能性を低め、原爆を投下する理由を作っていたのでした。


広島で平和記念公園が建設されたように、長崎でも原爆を後世に伝えるための施設があります。

長崎にある、原爆に関連する施設は以下のとおりです。
・平和公園
・原爆資料館
・永井隆記念館
 (※永井隆...被爆して重傷を負うも、私財を投じて被爆者のために活動した人)
・一本柱鳥居(山王神社)

他にも原爆関連の施設が多くあります。

詳しくは、以下のサイトをご参照ください。

https://nagasakipeace.jp/visit/insti/
https://hibakuikou-map.jp/
https://www.at-nagasaki.jp/spot?rtc%5B0%5D=8


長崎の原爆投下は、広島に比べて認知が薄いように感じます。

僕自身、広島の平和記念公園はいったことあるのですが、長崎はまだ行ったことがありません。

少しでも、長崎の原爆の周知に役立てれればと思います。


最後まで読んでくださってありがとうございました。

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