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映画鑑賞メモ:ラーゲリより愛を込めて- 山本幡男について -

日本の心を照らします🌞
鉄舟です!

昨日、最近話題の映画、「ラーゲリより愛を込めて」を観ました。

この映画は、以前に「すずめの戸締まり」を観に行った際に、予告で知りました。

そして、予告編だけで泣いてしまいました。

今年の8月、大東亜戦争終戦前後に起きた、満州や樺太など、ソ連によって引き起こされた悲しい出来事について向き合おうとしました。

その中で、シベリア抑留者の引揚船が多く入港した舞鶴にある、舞鶴引揚記念館を訪れた際、シベリア抑留者のこと、抑留者の帰りを待つ家族の氣持ちについて、知りました。

中には、「岸壁の母」という歌にもなっている、戦地から息子が引揚船で帰ってくるのを岸壁に佇んで待つお母さんもいらしたそうです。

そして、この映画の主演は二宮和也さん。硫黄島の手紙にも出演され、イーストウッド監督から絶賛された、日本が誇るトップアイドル兼トップ俳優です。

戦争の歴史を繋いでいくことは、悲しくて心に負荷がかかりますが、今、当たり前に存在している環境はどれだけの犠牲の上に成り立つかを多くの人が知るために欠かせない、重要な役割だと思います。

そんな重大な役割を担うような映画で、硫黄島に引き続き、今回は主演という形で、二宮さんが役目を果たしている、そんなことを思いました。


シベリア抑留という、あまりスポットが当たりにくいけど、日本人として知って置かなければならない、悲しい歴史的事件に対して、舞鶴という土地まで行って感じたことや、二宮さんが硫黄島に引き続いて重要な役割を果たしていると思うと、感動せずにはいられませんでした。

また、Mrs. GREEN APPLE による主題歌「Soranji」も素晴らしく、予告編だけで泣いてしまいました。


「これは見なければならない」と思っており、昨日、見に行けました。


映画館で観た感想は、「もう一声ほしかった」というのが正直なところでした。

モデルとなった山本幡男氏をとりまく、シベリア抑留における収容所内での友情、家族愛などがメインに描かれていました。

俳優さんも迫真の演技で、素晴らしく、胸に迫るものがありました。

映画の終盤、松坂桃李さんの演技に、思わず涙が流れました。

詳細はネタバレになるので省かせていただきますが…。

戦争ものを鑑賞する上で、僕が最も重点的に見るのが、「日本人としての誇りを持たせてくれるものかどうか」という点です。


この映画は、TBSによって制作されたものでした。映画を見るまで知りませんでしたが...。


TBSは、どちらかというと、戦前の日本について、あまり良いことは発信しないメディアです。

「サンデーモーニング」という日曜の情報番組のひどさは有名です。


TBS 制作ということもあり、日本という国に対して思い入れを強める要素がなかった点だけが、残念でした。

それ以外の部分では、文句なしの映画でした。


この映画を見て、「戦前の人で今も語り継がれるような素晴らしい人なら、実際の山本幡男さんは、日本人であることを誇りに思っていたに違いない。自分で調べてみよう。」と思い、簡単にネットで調べました。


これからは、その調べた内容を書いていきます。

一部、映画のネタバレになりうる内容にもなりますので、ご注意ください。


山本幡男という人物について

いろいろサイトを回りましたが、wikipedia が最も情報が具体的かつ多く、出典もびっしりと丁寧にありましたので、主にwikipedia の情報を一部抜き出したり参考にしたりしながら書いていきます。

リンクは本ページ下部に記載しておりますので、随時ご利用ください。

山本幡男氏は、島根県隠岐郡西ノ島町大山地区出身、1908年 (明治41年) 9月10日 に6人兄妹の長男として誕生しました。

運動は苦手であったが、性格は明るく、成績優秀、文才/画才にも恵まれていたそうです。

ロシア文学に心惹かれていたこと、ロシア革命に共感していたことから、旧制東京外国語学校 (現 東京外国語大学) にてロシア語を専攻しました。

在学中に社会主義に没頭し左翼運動に参加していたことから、退学処分となりました。

その後、結婚、満州にて満州鉄道の職員として勤務。入社時はロシア人試験官が舌を巻くほどの成績だったそうです。

ロシア語の語学をはじめとする能力を発揮し、ソ連に関する書物を執筆、高い評価を受けました。

大東亜戦争末期、召集令状により軍隊に入営、満州のハルビン特務機関に配属されました。

終戦時、ソ連のスヴェルドロフスク収容所へ抑留されました。

それまで、仕事の関係でソ連についての調査や書物の翻訳等を行っていたことがスパイ行為と見做され、重労働20年の刑となりました。

刑期20年は軍の司令官や大将にも匹敵するそうですが、これはソ連のスパイとなることを強要された山本がそれを断ったため、戦争の影響で正式な裁判が行われなかったため、などの説が存在します。

終戦翌年の1946年 (昭和21年) 末、収容所内で、山本氏は文化活動を始めました。帰国を諦める俘虜たちに帰国への希望を呼び戻すことが目的でした。

最初は万葉集や佛教を題材にする話で一同を楽しませていたそうです。

1949年 (昭和24年) 民主主義反対派と見做され、強烈な吊し上げに遭いました。

1950年 (昭和25年) に俘虜たちの帰国が開始されましたが、山本氏を含む戦犯とされた者たちは帰国できませんでした。

このとき、残された俘虜たちは帰国への希望を失いかけたそうです。

山本氏も、一度は絶望しかけたそうです。

しかし、希望を抱き続けることを近い、日本や日本語を忘れないよう、短歌や俳句を詠うようになりました。

山本氏は、詠んだ俳句や随筆をまとめた文芸誌を、作業用のセメント袋を切って鉛筆で書いて綴ることにより製作、仲間内で密かに回覧を始めました。

日本を詠った俳句、収容所内で亡くなった仲間への想い、日常のささやかな感動など、過酷な環境下でも保ち続けている山本氏の人間性と感受性が皆の心を打ちました。

この文芸誌は次第に、仲間に帰国への希望を呼び起こします。

後に、俳句を好む人たちとともに句会を開催し始めました。

収容所側が俘虜たちの操縦の手段として文化部を設置すると、山本氏が部長に任命され、国際情勢の周知、月に1, 2度開催される映画鑑賞の同時通訳など、精力的に取り組みました。

文化部以外でも、収容所内で許可された娯楽に対して積極的に関わり、場を盛り上げ続けました。

ハバロフスク強制労働収容所へ移された後の1950年、山本氏は「アムール句会」という句会を結成し、文化活動の中で最も力を注ぎました。

この句会は、1956年の最終引揚船の中まで、活動が続けられることになります。

アムール句会で山本氏は、日本の古典、落語、さらにカントやヘーゲルといったドイツの哲学者について語るなど、博識さで一同を楽しませました。

収容所内では戦後数年経っても日本軍の上下関係が幅を利かせていたが、山本氏はこれを最も嫌いました。

句会の中では俳号で呼び合い、階級や肩書とは無関係な、穏やかな集いとなり、様々な人が集まりました。

この句会のおかげで、俘虜たちには、重労働の辛さを忘れる時間ができ、苦境の中でも自然を愛する余裕が生まれた人が大勢いました。

帰国への希望を失いそうになる俘虜を山本は常に励まし、中には自殺を思い留まるものもいたそうです。

1953年 (昭和28年) 5月、山本氏は喉の痛みを訴えて収容所内の病院に入院します。

翌1954年2月、収容所内の仲間の幾度にも行われた請願により、ハバロスク市内の中央病院に転院しますが、末期ガンで手遅れだと診断され、翌日には収容所へ戻されました。

同年7月、病状が絶望となった頃に、仲間に勧められ、日本の母、妻子に宛てて計4通の遺書を書き残しました。

山本氏没後、仲間たちは彼の遺書を日本の遺族の元へ届けることを熱望します。

遺書の最後には、仲間たちに向けて、全文暗記して日本の家族のもとに伝えるように書き添えられていました。

遺書の暗記は、山本氏と親しい人、信頼をおける人、体力のある人、記憶力に長ける人、合計6人が分担して行われました。

ソ連兵のみならず、日本人俘虜の中にも密告者はいたため、文面を暗唱して頭に叩き込む作業は、慎重に行わなければなりませんでした。

暗記担当者は、他の誰がどの遺書を担当していたのか知らされていなかったそうです。

帰国は何年、何十年先かわからない、氣の遠くなる作業でした。

1955年、俘虜たちはハンガーストライキを行い、収容所側にはじめて対抗しました。「ハバロフスク事件」と呼ばれている事件だそうです。

同事件をきっかけに、収容所内の環境はかなり改善されたが、空腹で頭が虚ろになり、衰弱して明らかに記憶力が弱る中でも、暗記担当者は遺書を復唱し続けた。

同年、山本氏の死の電報が、妻の山本モジミ氏に届けられます。

山本氏の死から2年以上経過した1956年12月、日ソ共同宣言により、シベリア抑留者の最後の帰国が実現、引揚船でアムール句会最後の句会が行われます。

翌1957年以降、遺書の暗記担当者が山本モジミ氏のもとを訪ね、暗記をもとに代筆して再現した遺書の一部を届けました。

ある人は郵送や小包で、復元した遺書を届けました。

山本氏が収容所内で過ごした日々を克明に記した手紙、収容所内で作られた俳句や詩も、合わせて暗記担当者によって届けられました。

暗記担当者以外にも、1955年に社会党訪ソ団7名がハバロフスク収容所を訪れた際、俘虜の一人が山本氏の遺書の写しを、訪ソ団の一人であった戸叶議員に託し、戸叶議員が帰国翌日に山本モジミ氏に届けられていました。

遺書暗記担当者の中に戸叶議員と接触した人物はおらず、山本氏は確実に遺書を日本に届けるために様々な手段をとったと見られています。

感じたこと

ここまでの内容から、山本氏が生前、周囲の仲間から絶大な尊敬と信頼を得ていたこと、どれだけ絶望しそうな状況に陥っても希望を見出そうとしたこと、希望を見出す手段として俳句や詩といった文化活動を用いたことがわかります。

映画の原作にもなっている、山本氏の遺書の暗記にまつわるエピソードをノンフィクションで描いた「収容所からの遺書」 (辺見じゅん著、文春文庫) という小説があります。

この小説の著者、辺見じゅん氏はこのようなコメント残しています。

「収容所という地獄の中に、山本さんは『文化の力』を持ち込み、その力と自らの『人格の力』によって絶望を希望に変えたのである。」

自分は、ブータンにて、国民総幸福のためには、「国の文化伝統を守ること」が必須であることを知りました。

しかし、「文化の力」というものが、これほどまで人に希望に与えるものであると知ったのは、山本幡男氏について調べて初めてでした。


また、残された遺書の全文が、ご長男の山本顕一氏のHPにて、公開されています。

4通の遺書のうち、子ども宛の遺書の中に、映画では触れられなかったこのような文言がありました。

「光輝ある日本民族の一人として生まれたことに感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化−−人道主義を以て世界文化再建設に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。」

日本人としての誇りを重要視している自分にとって、この文言は深く刺さりました。

戦前の歴史教育はどれだけ素晴らしかったのでしょう。自分が生まれながらにして帰属している「国」という共同体に対して、これほどまでに誇りをもたせる教育というのは。

なぜ、当時の日本人は、たとえ上層部が合理的な判断のできない人達であっても、日本のため、アジアのために文字通り命を懸けて戦うことができたのか、その答えを見つけたような氣持ちになりました。

日本人は、他国からの文化をそのまま取り入れるのではなく、日本流に変化させて、自国の文化と融合させる力を持っている。

この力を有する民族は、歴史的に見ても稀有だった。

だから、日本人は、登用と西洋の文化を融合する唯一の媒介者、人道主義を以て世界文化祭建設に寄与し得る唯一の民族である。

日本民族は、世界において、歴史的使命を担っている、そのような使命感によって、現場の日本人兵士は、文字通り命尽きるまで、敗けるとわかっていた戦争でも戦い続けることができたのではないでしょうか。

敗戦後も、インドネシアでは現地の人たちと協力して、オランダとの独立戦争を戦った。

インドでは、チャンドラ・ボースとともに、インド独立運動の手助けをした。

日本民族としての歴史的使命が、「アジアの欧州からの開放」というスローガンに繋がり、上層部は口だけだったけど、現場は命を賭して貫いた。

それが、多くの国に恩を与えることになり、親日国が多いという現在に繋がっている。

そのようなことを感じました。


自分は、歴史、特に戦争のことを知ることで、今の当たり前が、どれだけの犠牲の上に成り立っているかを知り、それが、今の自分たちの命の尊さを知ることにつながると、最近強く感じています。

これは、精神病罹患率、あるいは自殺率が非常に高い、日本においては非常に重要な点と思っています。

今を生きている人は、相当年配な方や、歴史に興味のある人以外は、今の当たり前の環境を当たり前と思っているかと思います。

つまり、今の環境に、あまり価値を感じていないのではないか、と感じます。

それは、自分の命の尊さを知らず、軽んじることができることでもあります。

だから、戦争という、悲しくて目を背けたくなるような歴史に対して、今を生きる自分たちは向き合わないといけないと思います。

また、お先真っ暗のような雰囲氣が漂う今の日本で、重要なことを知ることもできます。

山本幡男氏が伝えてくださったのは、日本人としての歴史的使命、どんなに絶望し得る状況でも希望を見続けることが大事ということ、祖国の文化伝統には絶望の中で希望を見出す力があるということ。

少しでも、山本氏が後世に伝えようとしたことが、多くの人に伝わればいいなと思います。

参考/引用元Webサイト

・山本幡男 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B9%A1%E7%94%B7

・遺書
http://www.br4.fiberbit.net/ken-yama/www.br4.fiberbit.net_ken-yama/yi_shu.html


その他、参考Webサイト

・映画の原作  「収容所からの遺書 |辺見じゅん著 文春文庫」Amazonサイト
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80-%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AA-%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E9%81%BA%E6%9B%B8-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%98%E3%82%85%E3%82%93/dp/4167342030/ref=sr_1_1?qid=1672482872&s=books&sr=1-1

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