じっぽ

実家に帰ると、一枚のカッパの絵が飾ってある。たしか、小学校3年生ごろに描いたカッパの絵だ。そのカッパの名は「じっぽ」という。読んだ本の絵を何も見ずに描く、読書感想画コンクールと呼ばれるもので佳作をもらった作品だ。絵の中で「じっぽ」は、水槽に入れられてサンマのようなものを鷲掴みにしている。もしかしたらアジかもしれないし、サバかもしれないけど。ちょっと細長いのでサンマだと思う。まさか、カマスじゃないだろう。

細長い魚をどんどん書いていくことになると、最終的に寿司屋の湯呑みのような文章を書き綴ることになってしまう。肝心なのは、その絵が「佳作」であったということだ。

佳作:絵画・文芸作品のコンクールなどで、入賞した作品に次ぐ優れた作品。

辞書を引くと、こうあった。当時のぼくも「佳作」とは何かを先生や親に聞いた気がする。そしてそれが、優秀すぎる物に選ばれる賞ではないことも理解していた気がする。
実家に帰るたび、ぼくは、ぼくの「佳作」を見ている。サンマでもカマスでもいいが、細長い魚を鷲掴みした、図鑑には載っていない生き物を。そして、その頭に皿を持つ、緑と群青が入り混ざった生き物の目線の先には、たくさんの賞状やメダルが並んでいる。
それは、妹が手にしたたくさんの栄光だ。どっかの市長が噛まずにはいられないような、キラキラひかるメダルたち。そのどれもに、優勝の文字が刻まれている。

何かと「佳作」の多い人生。はじまりはこの「じっぽ」だったように思う。何をやっても、佳作。それなりに面白い発想だけど、もっと面白い発想に負ける。それなりにいい文章だけど、もっといい文章に負ける。それなりに、それなりに。自分が一生懸命にやったものでも、いつも他者の手に渡ると「それなり」になる。気づけば自分が手にしたものは、たくさんの「佳作」や、ほかに与えるものがない努力賞、優秀賞を取れない優秀さ。

たいていこうやって下げて下げて書いていく文章は、最後に少し報われる。報われたことがあると書く。ただ、今日はそういうことでもない。何をやっても、昨日も、今日も。結果はやっぱり「佳作」なのだ。純度100%でも、純度0%でもなく、純度52%ぐらい。どっちつかずのものを、いつか優秀賞がもらえると思って吐き出している。

悔しいのが、結果が出た時に、その結果を自分でも受け入れてしまっていることだ。「おもしろいなぁ」「すごいなぁ」と、いつもステージの下で拍手をしてしまっている。いつか、優勝は「駄作さんです!」と言われる日が来るのだろうか(ちょっと名前のせいでややこしいけど)。ぼくの頂点は、そのステージにはなくて、今座っているこの席なのではないだろうか。

それなりの呪いは、どうやったら解けるのだろう。誰かのそれなりが、自分の全力だったとしたら、それをどう受け止めたらいいのだろう。もっと努力が必要なのに、「それなり」だから与えられた努力賞には、なんの意味があるんだろう。

そういえば、「じっぽ」の掴んでいた魚、メダカだった気もしてきた。メダカにしてはずいぶん大きいけど、佳作になった理由はそういう突き抜けてないダイナミックさにあったのかもしれない。一体、どんな絵に負けたんだろう。きっとどんな絵に負けていても、自分は納得して、ステージの下で拍手をしていたに違いない。

いつか、この「じっぽ」から始まる文章の続きを書こうと思う。それは、きっと、自分が何かの優秀賞を取れた時になる。いつになるかわからない。佳作を積み重ねて、「佳作優秀賞」「最優秀努力賞」なんてものをもらっても、それはなんか違う気がする。

あとあれだ、「じっぽ」をもう一度読んで、掴んでいた魚の種類が分かった時にも書くかもしれない。これが「コノシロ」とか「コチ」とか「ハモ」とか、そういう突拍子もないもので、小学生のぼくが名前も知らない魚だから描ききれなかったとかだと面白いんだけど、たぶんきっとサンマかアジ。ちょっと外れていても、メダカなんだと思う。


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