1.陽子(会社の同僚) ~太陽と月~
昭和の名残り
四半世紀前、昭和の香りが残る時代の話。
セクハラもパワハラも、犯罪だという認識すらない時代。
ある男性社員の机の上には卓上ヌードカレンダーが置かれていたし、別の男性社員はオフィスですれ違いざまに女の子のお尻をタッチしていた。
オフィスでタバコを吸うのも当たり前だった。
今、思い出すと思わず笑ってしまうほど、あの頃の常識は今の常識とはかけ離れていた。
本当に遠い昔のできごとだ。
ただ、俺の人生に刻まれたその痕跡は鮮明で、あの時のできごとは、まるで昨日のことのように思い出すことができる。
有能なペア
ITという言葉もない時代で、営業担当の総合職と事務サポートを担う事務職(所謂OL)が1対1でペアを組んで仕事をしていた。
ペアとの関係が良くないと、ギリギリの時に無理を聞いてもらうこともできないし、真剣にサポートしてくれない。
有能なペアの事務職は、総合職の作った文書をチェックしてミスがあれば訂正してくれたり、業務の抜け落ちがないように、スケジュール管理した上で事前に教えてくれたりする。
俺たち営業の仕事の成果は、ペアの事務職のサポートに負うところが大きかった。
俺が、陽子のいた部に異動してきた時、彼女は入社3、4年目。
短大卒だったから、多分25歳ぐらいだったと思う。
陽子のペアの営業担当が他部に異動し、代わりに来たのが俺だった。
俺はちょうど30歳。結婚して3年。同期の中でも結婚は早い方だった。
陽子は、眼が大きく、いつも明るく楽しそうな表情をしていて、名前の通り、その存在は周囲の人を明るく照らしていた。
仕事中、ニコニコ笑う陽子に、俺が、
「今日もご機嫌だね。なんか良いことあった?」
と聞くと、
「私、大学は女子大だったし、英語ができないのに英文に入っちゃったんで大学時代は暗黒だったです。だから、就職してからは、毎日、会社に来るのが楽しくてしょうが無いんですよ。」
と返してきた。
「ウチの部は結構若い男が多いからなあ。お目当ては、サカイとかイシカワあたりか?」
とからかっても、
「いやいや、スズキさん(俺)も負けてないですよ。タナカ課長もダンディだし。」
と平気で言い返してくる。
お世辞なのか、本心が混じっているのかよく分からない。
これ以上、うまく会話を続けるスキルのない俺は、ふふんと視線を合わせずに笑い、仕事に戻った。
バブルの処理
当時の日本は、90年台初めに踊った資産バブルが弾けたところだった。
バブル崩壊で生じた問題案件を、今、処理するのか、それとも、先送りするのか、過去に例のない状況に苦闘していた。俺の会社もバブルの傷跡に喘いでおり、異動を言い渡された時に「バブルの処理がお前の次の仕事だ」と言い渡されていた。
仕事の内容が重苦しいので、陽子がいつも明るく仕事をしてくれることには、本当に助けられた。明るいだけではなく、真面目で手を抜かずに仕事をするので、事務を安心して任せることができていた。
問題取引の処理業務は前例が少なく、マニュアルも整備されていないので、彼女も心労は多かったと思う。
当時の俺たちの課は、タナカ課長の下、先輩担当者のイトウさんにイトウさんのペアのタムラさん、そして陽子と俺の計五人と少人数だった。
問題のある先が多く、担当とペアが四人そろって残業することも多かった。
9時を過ぎると、陽子が、
「あー、お腹すいた。そろそろなんか食べに行きましょうよ。」
と言い出し、みんなで会社近くの居酒屋に出かけるのがお決まりのパターンだった。
月夜見
陽子は、名前の通り昼間は太陽のように明るく模範的なOLなのに、夜になるとその反動なのか、ビールから始まり、ウォッカ系のカクテルが好きで、飲み出すと止まらない。
陽子は、黄色や赤系の明るい色の服や、大きな花柄の服を好んで着ていた。その日着ていた黄色いワンピースも、顔立ちも表情もはっきりしている陽子によく似合っていた。
イトウさんや俺が「もうそろそろお開きにしようか」と言っても、
笑い上戸の陽子は、ゲラゲラ笑いながら
「うるさーい。あんなに働いてるんだから、もっと飲ませろ~」
と叫んで、言うことを聞かない。
「あー、また陽子ちゃんが月夜見になっちゃったよ。」
古代史好きのイトウさんは、物事を神話に例えて話すのが好きだった。
「神様には逆らえないからなー」
昼間は太陽のように俺たちを照らしてくれるのに、夜になると月の神になって、気ままに振る舞う。
ただ、陽子は、酔い潰れて周囲に迷惑をかけるようなことはなかった。
酒が好きで常日頃から飲む機会が多く、慣れていて強かったんだろう。
「酔っぱらう子と書いてヨウコちゃんだからなあ」と俺が言うと、
イトウさんは「上手いこと言うね」と笑っていた。
昼間、胃が痛くなるような仕事をしている分、夜には、それを発散させようと、みんなで陽気に飲んだくれていた。
陽子の自宅は埼玉で、11時半くらいが終電。それに間に合うように駅に連れて行くのは、いつも俺の役目だった。
トラブル発生
当時、問題を抱えている日本の会社のほとんどは、自社の体力の範囲内で徐々に問題取引を処理しようとしていた。
今なら、不良債権が発生したのなら、資産査定を行って、見込まれる損失の全額をその期に損失として計上しろ、と監査法人が厳しく迫って来るのだろうが、当時は、決算を睨みながら、赤字決算にならないよう利益の範囲に処理損失の額を収めるような決算処理が許されていた。
俺の会社も例に漏れず、その期に見込まれる利益を計算しながら、どの案件をその期に処理するのか、慎重に準備を進めていた。
上期決算で処理する取引の総額が固まったのが、9月の最終週の月曜日。
そんな時、経理本部から突然、呼び出しがあった。
急いでイトウさんと出向いてみると、
「問題取引を処理する時のシステム入力方法を変更する」
という内容だった。
入力方法は1ヶ月近く前に確認済で、急な変更は寝耳に水。
言葉にすると簡単なようだが、取引には様々な付帯条件があり、入力項目はかなり多かった。
俺の担当先で処理予定の取引は150件近くあり、イトウさんの担当先でもその半分ほどだが、入力方法を変更するとなると、我々の課がこれからやり直す実務処理は膨大な量だった。
二人で猛烈に抗議したが、経理も「慎重に検討し直して出した結論」と譲らない。
押し問答になったが、覆すことはできず、イトウさんと急いで部に戻った。
話を聞いた陽子とタムラさんは、憤然としていた。
「折角、何日も掛けて準備したのに。」
「明後日の朝までにシステムセクションに入力票を回さないと上期決算が締められません。全社に迷惑がかかる。」
「言われた通りにやるとしても、今日は経理の言ってることを確認して入力方法を考え直さなきゃならないから、実質、明日一日で全部作り直さないといけない。」
「無理! 絶対間に合わない!」
代わる代わる不満が溢れ出る。
無理筋なのは分かるが、そうは言っても放り出す訳にもいかない。
俺とイトウさんは、それぞれのペアと対応を打合せることになった。
俺が陽子に「150件くらいあるよね。」と聞くと、
陽子は「147件です。」と即答した。
「じゃあ、俺が50件受け持つ。頑張るけどさすがに同じスピードでは作れないから、残りの100件を頼むよ。それぞれ、入力票を作成したら、相手に渡して、ダブルチェックすることにしよう。それで、なんとか明後日に間に合わせよう。」
「分かりました。」
口を尖らせているが、本心から怒っている風でもない。いつもの陽子に戻っていてくれた。
翌日は、朝から二人で一心不乱、猛然と入力票を作っていく。
昼食も夕食も食べに行く余裕はなく、俺が売店におにぎりやサンドイッチを買いに行って、二人で分けて食べた。
陽子は、普段の笑顔を忘れ、作業に集中している。
俺が、取引の明細を見ながら、処理にたどりつくまでの苦労を思い出してしみじみしていると、
「スズキさん!手が止まってます!」
と注意してくる。
苦笑いする俺に
「そんなんじゃ、今日帰れませんよ。」
と畳みかけてきた。
夜の10時を過ぎると、俺たち四人を残し、部には誰もいなくなった。
11時半頃には、イトウさんとタムラさんも作業を終えて、終電に間に合うようにオフィスを出て行った。
残ったのは俺たち二人だけ。
終電は最初から諦めていたので、タクシー券を昼間のうちに2枚確保していた。
午前2時
「おかげさまで全部終わりました。」
「これで明日、全部の入力票をシステムに回せます。」
陽子がホッとした顔で俺にこう告げたのは、午前2時くらいだった。
「ありがとう。じゃあ、帰ろうか。」
二人でオフィスの入り口を閉め、電気を消すと急に真っ暗になった。
「きゃっ」
いきなり陽子が俺の右手を掴み、身体を寄せてきた。
エレベーターホールまでの長い廊下は、小さな緑色の非常灯が、間隔をあけて心細げに灯っているだけで、明るいオフィスから出てきた俺たちにとっては、驚くほど暗かった。
俺は右肘に陽子の胸の膨らみを感じ、一瞬動けなくなった。
半年以上の間、毎日10時間近く1mほどの距離で過していたのに、俺たちは、指と指が触れあうことすらなかった。
急に陽子の身体の柔らかさと体温を感じることになった俺は、言葉を発することができないまま、ゆっくりと歩き始めた。陽子は、もう暗闇に眼が慣れたはずなのに、離れようとしない。
毎日歩いているはずのエレベーターホールまでの道のりが、やけに遠く感じた。
エレベーターの中は煌煌と明るく、慌てて俺たちは二つに分かれた。
午前2時のオフィス街にタクシーの姿はなかったが、少し歩いて大通りに出ると、タクシーは直ぐに捕まえることができた。
俺は、陽子がタクシーに乗り込もうとするのをドアの横で見送りながら、
「お疲れ様!」
と声をかけ、もう一台タクシーを探そうと顔を上げた。
その瞬間、急に右頬にヒヤリと柔らかいものを感じ、驚いて眼を落とすと、立ち上がった陽子が再び身を屈めてタクシーに乗り込むところだった。
ドアの閉まったタクシーの窓を開けた陽子は、
「今日はありがとうございました。」
「おやすみなさい。」
と、いたずらをした子供のような笑顔で言った。
俺は自分のタクシーを探すことを忘れ、左手で右頬のキスの痕跡を押さえながら、呆然と陽子の乗ったタクシーが消えた先を見つめていた。
純愛ラプソディ
その年の年末の打ち上げは、部合同で総勢30人ぐらいの大規模なものだった。二次会は大きなカラオケルームを借り切ったが、人数が多く、誰も歌ってない時でさえ、会話がしづらいほどガヤガヤしており、少し離れたところに居る人の話は全く聞き取れなかった。
部長が「誰か歌わないのか。」と大声で言ったのを受けて、
陽子が「私、ちょうど今、入れました~」と立ち上がった。
マイクに向かって歩き出す時、俺にだけ聞こえるような小さな声で言った。
「スズキさんに心を込めて歌いますから、ちゃんと聞いていて下さいね。」
陽子が入れた曲は、竹内まりやの「純愛ラプソディ」だった。
数年前に大ヒットしたテレビドラマの主題歌だったから、若い女の子が歌うのに違和感はない。
ただ、歌詞を知っていた俺は、歌う陽子を真っ直ぐに見ることができない。
いつもならニコニコしながらこちらに視線を向けて歌う陽子も、カラオケの画面を見つめ、そして時々眼を伏せながら、歌っている。
陽子は歌が上手く、良く通る艶のある声で歌うのが常だが、今日は心なしか声が小さい。
カラオケルームには沢山の人が居たが、みな、かなり酒が入っていて、思い思いに周囲の人と話し込んでおり、カラオケで聞き慣れた歌を歌う陽子の様子が、いつもと違うことに気付いているのは、多分、俺だけだっただろう。
歌い終わった陽子は、すっきりしたような表情で、マイクのそばにいた別の課の同期の女の子の横に座り、楽しそうに喋り始めた。
俺も、何もなかったように自分のグラスを口に運び、揺れ動く心をウォッカトニックと一緒に飲み干した。
11時を回ったところでお開きになり、俺はいつものように陽子を駅に送り届けようとしていた。
十六夜
「あー、もうダメ。歩けないよ~」
「スズキさん、ちょっと休んで行きましょうよ。」
「ラブホは嫌ですよ。」
「ちゃんとしたシティホテルにしてください。」
陽子がこういう際どい冗談をいうのは、今日に始まったことではない。
いつもなら、
「はいはい、帝国ホテルに部屋取るから、明日の朝、自分で部屋代払って、定時までに出社しろよ~」
と言い返すのだが、その晩の俺は、明日から年末年始の休みだという安心感から飲み過ぎていた上に、陽子の「純愛ラプソディ」に心を乱されていた。
少しよろけた陽子の手を取って、駅とは違う方向に曲がり、人気の無い路地に入った。正面に立って真っ直ぐに陽子の大きな目を見つめると、陽子は少し驚いたような顔をしたが、やがてゆっくりと瞼を閉じた。
吸い寄せられるように俺は唇を重ね、両手を背中に回して陽子を抱き寄せた。陽子も俺の腰に手を回し、自分の身体を押しつけてきた。
二人ともコートの前を留めていなかったので、胸元から膝までを一つになろうとするかのように密着させ、服の上からお互いの形を感じ合った。
陽子は、さらに二人の間の隙間を埋めようと右足を俺の足の間に差し入れてきた。
俺は、俺の身体の変化が陽子に伝わったのを感じた。
「こんな時間にウォークインで入れてくれるシティホテルなんてないよ。」
「なるべくきれいなところにするから、ラブホで我慢してくれ。」
本気の言葉を投げかけながら、俺は、駅とは正反対の方向に陽子の手を引いて歩き出そうとした。
陽子は動かなかった。
「だめですよ。そんなことしちゃ。」
驚くほど大きな声で言うと、俺の手を振りほどいて、力なく俺を睨んできた。
「私が必死に我慢しているのに、どうしてそんなこと言うんですか?」
「スズキさんはそういうことは、しない人なんだから。」
「私、迷惑をかけたくない。」
いつもは笑い上戸の彼女が、珍しく眼を赤くしていた。
我に返った俺は、ひどく混乱していた。
今日まで、ずっと自分を律してきたのに、なぜ今日は思い惑ってしまったのか?
陽子は、天照なのか?月夜見なのか?
「何が正しいか」は、はっきりしている。
ただ、時にはそれを突き破る想いが溢れてくることがある。
俺は、この夜、その想いに操られていた。
「もう、私、一人で行けますから。」
「今日は、ここでいいです。」
陽子は、いつもの快活な声でそう言うと、
「いつも、送って下さって、ありがとうございます。」
と小さくお辞儀した。
そして、地面を見つめながら小さな声で
「大好きです。」
と言って、くるっと背を向けて歩き出した。
駅に向かう方向に角を曲がり、その姿は消えた。
俺は、何を間違えたのだろう?
それとも何も間違えていないのか?
わからない。
途方に暮れて空を見上げた。
ビルに小さく切り取られた冬の澄んだ夜空には、十六夜の月が力なく浮かんでいた。