殺人の凶器は紙のファックス!? 小説 「ファックスの終りとオフデューティ・マーダーケース」(4) 創作大賞2024
「話なら聞きました」
係長の高尾が電話口で静かに言った。女性刑事がまだ珍しかった時代からの叩き上げ。そんな稲塚の直属の上司は、ちょうど警視庁本部庁舎にある特通課の大部屋にいたらしい。音声の背後から、騒然とした職場の気配が伝わってくる。
「どういう状況か、あなたの口からも聞かせてもらえるかしら」
そこで稲塚は、今日の午後からの経緯をかいつまんで説明した。離島の民宿で一人の旅行客がファックス死したこと。島唯一の医師の機転により、稲塚が現場に入って密造ファックスの無力化を確認したこと。ほかにファックスは見つかっていないこと。
状況的には無差別な犯行ではなく、ほかにファックスがある様子も今のところ無さそうだと伝えたうえで、稲塚は上司に申し出た。
「とにかく初動が肝心です。このまま自分が第一発見者の聴取だけでも」
「正式な要請もなしにうちが割り込むのは、あまり褒められた話じゃないわね」
縄張りに面子の意識。理解はできるが、稲塚にとっては面倒なだけの代物だった。
「ですが、当の駐在からは協力を要請されました」
「……わかりました。とにかく、戻ったら正式な報告書を。何かあれば連絡します」
一応動く許可は得たと解釈して、稲塚は電話を切った。そして手元の傘を差すと、それまで身を寄せていた事件現場の民宿の軒下から、正面に停まる軽ワゴン車に足を向けた。
車内では、いつの間にか助手席に収まった木内が、大月医師と遺体の安置の相談をしていた。水を差すのを悪く思いながら稲塚は、遺体搬出のあいだ民宿にいた人間からの聴取を引き受けたい、と切り出した。
島のコミュニティの一員でない稲塚のほうが、バイアス無く話せるだろうという目論みだった。話を聞くほう、聞かれるほう、互いに。
「ぜひよろしくお願いします!」という駐在の反応は、この上なく明るかった。彼は他人を利用するのに抵抗がないタイプかもしれない。そんなことを稲塚が内心感じていると、ふと木内は訊ねた。
「例えば手荷物検査で送信側の密造ファックスが見つかれば、それで犯人特定ですか?」
「この島に犯人がいるとは限らないし、いたとしても証拠はすでに処分されているかもしれない」
通信部にスマートフォンを流用した密造ファックスなら、携帯電話の電波さえ入ればどこででも送受信できるし、もし島に送信側があったとしても、海に投げ込めば証拠隠滅は一秒で済む。
「なるほど。それにしても助かりました。まさかこんな田舎でこんな事件が起こるなんて、まさに想定外。麻美先生から、稲塚さんの話を聞かなければ、まだ自分一人で右往左往しているところでした」
同じ車内の医師が苦笑する。稲塚はなんだか自分が捜査に携わるよう、見えない力に後押しされているような感覚に襲われた。
島には静かに、夜の帳が降りてきていた。
*
向かいには緊張した面持ちの女性。小柄で、明るい茶髪を後ろでまとめている。
対面する稲塚の手には、木内から借りたボールペンとメモ帳。汐路屋のロビーに敷かれたカーペットは落ち着いた色合いで、そこに置かれたソファに二人は向かい合って座っていた。稲塚が最初に話を聞くことにしたのは火野という名前の、汐路屋の若い従業員だった。
大月医師はゆおくり荘の主人の軽ワゴン車で先に診療所へ戻り、今頃は遺体安置の準備をしているはずだ。稲塚も手を貸して運び出した被害者の遺体は、今は汐路屋のオーナーが運転する車に載せられ、木内と共に診療所を目指している。
そして稲塚は現場となった汐路屋のロビーで、第一発見者から事情を聞くべく、時間を割いてもらっていた。
「従業員の方は皆さんそのTシャツを?」
稲塚が訊いた。彼女は不思議そうな表情を浮かべる。
「ええ。一応お土産としても売っているんですけど、あんまり買ってくれる人いないんですよね」
黒地に白い筆文字で、「汐路屋」という民宿の名前がプリントされたTシャツを彼女は着ていた。
「それほど悪くないと思いますけど。では、亡くなられた宿泊客の、日下達也さんのことについて教えてください」
被害者の身元は、宿の記録と所持品から確認できた。日下達也、二十八歳。チェックアウトは明日の予定だった。
「最初にあなたが客室の物音を聞いた、というふうに伺いましたが、詳しく教えていただけますか?」
稲塚の質問に、火野は出来事を簡潔かつ順番どおりに稲塚へ話した。
曰く、二階から大きな物音がして、何事かと思って見に行くと日下が倒れて意識を失っていたのだという。正確にはこの時点で絶命していたはずだ。
いずれにせよ彼女は、その場で汐路屋のオーナーに連絡を取り、次いで大月医師に連絡を取り、医師が到着するまでは客室を離れなかったのだと説明した。そして到着した大月医師がすぐに駐在を呼び、駐在が来て間もなくファックスが見つかったので、駐在以外の全員は汐路屋から避難した。
その後は駐在だけが留まり、一応の現場保存に努めていたはずだ。
「事件の前後の時間、この民宿に出入りした人は?」
その質問には明確な答えが返ってきた。
「お昼前にはオーナーが用事で出かけてしまったので、お昼から騒ぎになるまでのあいだ、スタッフは私一人だけでした。お客様は、昨日からお泊まりのその亡くなった方と、亡くなった方のお連れの二人だけで、それ以外の人の出入りはないはずです」
話が進む中、稲塚は彼女の顔色や声色を観察していた。
「亡くなった方含めて三人のお客様は、午前に一度出かけたあとお昼頃に戻って、お一人だけまた外出したようでした。亡くなった方は、ずっとお部屋にいたようです」
稲塚は「なるほど」と応えてから礼を言い、最後に彼女へ宿泊客の一人を呼ぶよう頼んだ。
*
金子というその男と対面して、最初に目についたのは几帳面に整えられた顎髭と短い金髪だった。そしてバスケットボールの選手のような体躯。直前までそこにいた火野が小柄だったせいか、余計に長身に見える。
「あなた、フェリーで一緒でしたよね」
そう尋ねる稲塚に、金子は仏頂面を崩さない。
「そうだったっけ?」
「あなたたち三人、釣り仲間とかだったんですか?」
「まあ確かに、釣りきっかけで知り合って、三人ともフリーターで歳も近かったし、ときどき海行ったり、泊まりがけでどっか出かけたりはしてたけど」
そこで稲塚は改めて身分を明かし、今朝からの行動を金子に質問した。
「やることもなくてあんまり暇だからさ、三人で早めに昼飯食ったのよ」
「海原ハウス。ちょうど入れ違いになりましたよね」
「何あんた、俺たちのこと見張ってたの?」
「いやいや、偶然。こっちも昼飯食いに行くくらいしかやることなくてさ。それで?」
「それから戻って、二人とも天気悪いから出かけたくないって言うから、俺一人で港で釣りしてた」
「この天候なのに?」
「雨だとよく釣れんのよ。お巡りさん知らない? まあでも、本格的に荒れてきちゃったから、片付けて戻ってきたらこの騒ぎ。『避難してください』なんていうから、何かと思ったら……」
どうやら事件発生時は民宿にいなかったということらしい。従業員の火野の話とも一致する。しかし遠隔が基本のファックス事件において、現場にいなかったことは無実を意味しない。むしろ誤って自分の命が奪われないよう、ファックスを用いた殺人事件の犯人は、現場から距離を置く傾向にある。稲塚は雨の中で釣りをしていたという場所を聞いたうえで、さらに尋ねた。
「部屋からファックスが見つかったんですが、何か心当たりは」
「そんな物騒なもの、心当たりなんて全然」
金子はかぶりを振る。
「そういえば、グループ旅行なのに部屋別なんですね。俺だったら、友達とわざわざ別にしないかな」
この三人組は、一人部屋を三部屋取っていた。
「日下のイビキのせい。前の遠征のときは俺も土田も、日下のイビキのせいで一睡もできなかったんだから」
土田——三人組の、最後の一人。
「まあでも、あのイビキももう聞けないんだよな……」
それから基本的な質問をいくつかしてから、稲塚は丁寧に礼を言い、金子への聴取を終えた。
(続く)