殺人の凶器は紙のファックス!? 小説 「ファックスの終りとオフデューティ・マーダーケース」(2) 創作大賞2024
事件
らしくない休暇の使い方をしたせいだ——稲塚はそう考えることにした。
窓の外では今朝からの雨が降り続いている。朝食のとき「島の天候は変わりやすいんですよ」と、稲塚はこの民宿の主人から説明された。おまけに今日は、これから天気がますます崩れそうだとも。
そもそもこのあたりの海は荒れやすく、船が出せなくなることも珍しくないらしい。
稲塚が泊まっている部屋は十畳の和室で、古めかしい座卓の上には急須と薄緑色の湯飲み茶碗が並んでいる。そして座卓のすぐ脇には座布団が一つ。
これでも昨日は快晴だった。前夜に東京の竹芝桟橋を出港して、午前中にここ弓奥利島の港でフェリーを降りたときには、まるで夏が戻ってきたかのように感じられた。都心ではもう、街路樹は色づくか落葉するかしている。もっとも、この島も住所は東京都だったが。
弓奥利島でフェリーを降りた乗客はほとんどいなかった。一人旅の稲塚のほかには、ラフな服装の三人組だけ。都合男ばかり四人。観光シーズン以外はこんなものなのだろう。三人組は皆、稲塚よりいくらか年下の二十代後半くらいで、それぞれ大きなリュックやスーツケースに加えて、クーラーボックスのような荷物を提げていた。おそらく釣り人たち——視界に入った他人をいちいち観察せずにはいられないのは、稲塚の職業病だった。
試しに港から覗き込むと、海中には確かに泳ぐ魚の影が見えた。それほどに水は澄んでいて、ときおり静かな波に日光がきらめく。
それから稲塚は泊まる予定の民宿に足を向けると、時間をかけて温泉と昼寝と新鮮な海の幸と地元の島酒を存分に堪能して、それで島での一日目は終わってしまった。
雨の勢いは、朝から微かに増しているようだった。
しかしこんな天気でも、留置場の被疑者のようにじっとしているよりはましだろう——そう考えて、稲塚は少しだけ出歩いてみることにした。
そもそも今回の旅の目的は、出発前から完全に失われている。
客室を出て、板張りの廊下を進む。玄関脇のフロントには誰の姿も無い。そして昨日も目にしたとおり、玄関の傘立てには数本のビニール傘。宿泊客なら自由に使っていいという旨の説明書きが壁に貼ってある。こういう細かな気遣いがありがたいものだ。
稲塚は傘を一本手に取ると、扉を開けて外へ出た。
扉の脇の外壁には、達筆な文字で「ゆおくり荘」と刻まれた木彫りの看板が掛かっている。これもまた昨日見たとおり。けれど看板はまるで今日初めて表へ出したかのように磨かれていて、どうやらこの民宿を営む夫妻は相当に几帳面らしい。
民宿から続く砂利の道は濡れ、傍らには軽ワゴンが停まっている。湿った土の匂い。ワゴン車のフロントガラスでは雫が列を成し、稲塚が借りた傘を差すと、雨粒がビニールを叩き始めた。
*
「カフェレストラン・海原ハウス」は、ゆおくり荘から歩いて十五分ほどの場所にあった。稲塚が歩いてきた道は島を一周するように続く片側一車線の道路で、両側には木々の緑が茂り、稲塚には島全体が一つの林のようにも感じられた。
少しだけ早い昼食にしようとその店のドアに手をかけたとき、ちょうど入れ違いに店から出てくる客の姿があった。
同じフェリーで島に着いた三人組の男たち。今日も三人一緒で、誰も稲塚には気づいていない様子だった。
改めて店内に足を踏み入れる。そこは外観から予期していたとおり、年季の感じられる空間だった。壁紙は日焼けし、木製の椅子とテーブルからも歴史が感じられる。
しかしそれ以上に目立っていたのは、壁に貼られた大量の魚拓だった。大小様々な魚を単色で紙に写したものが、一面に並んでいる。
「いらっしゃい」
奥から顔を出した店主らしき初老の男が声をかけてきた。稲塚は勧められるままにテーブルの一つに着くと、卓上のメニューにざっと目を通してから、焼き魚の定食を注文する。ランチタイムはコーヒーがサービスで付くらしい。
注文を受けた店主はすぐに厨房に向かった。今、店内に稲塚以外の客の姿はない。急な静けさに落ち着かなくなった稲塚の目は、自然と壁の魚拓の群れに向いた。
やはり、店主の作品だろうか。
料理はほどなく運ばれてきた。食べ終える頃を見計らって、食後のコーヒーも運ばれてくる。丁寧に紙のコースター付きで。
コースターには店の名前と一緒に魚拓があしらわれていた。店に貼ってあるものを、縮小してプリントしているようだ。
「お客さん、どちらから?」
食事を終え、ようやく客が自分一人という状況にも稲塚が慣れてきた頃、店主が訊ねてきた。稲塚は「東京から」と正直に答える。
「っていうと、お客さんもやっぱり釣り?」
稲塚が答えに迷っていると、店主は一人で続けた。
「今だったらイサキでしょ、カンパチでしょ、あとヒラマサとかムロアジとか。ゴマアジなんかは一年中釣れるし……イカにはちょっとまだ早いかなぁ」
「いや、実は釣りじゃなくて。珍しく休みが取れたんで、たまには一人でゆっくりとでもしようかと」
愛想笑いを添えて稲塚は説明したが、同好の士でないとわかるやいなや、店主のテンションは目に見えてトーンダウンした。
「この魚拓、ご主人が釣ったんですか?」
気を使って稲塚が質問を投げかけた。なぜ客が気を使うのか。
「そうそう。なんせ私も釣れる魚に惚れ込んで、島に移り住んだような人間だからね」
どうやら筋金入りの釣り人らしい。それから数分間、店主の釣り談義は続いた。初めは困惑していた稲塚も、これも一種の非日常体験だと考えて、店主の話に耳を傾けることにした。
「そうだ。これ、お土産に持って帰って」
そう言いながら店主は、稲塚に新品のコースターを差し出した。アイスコーヒーの下にあるものとは、描かれている魚の種類が違う。
「ランダムでお配りしてるんですよ。今度島へいらしたときも、ぜひ当店にお立ち寄りくださいって。火曜の定休以外は、なるべく店開けてますんで」
愛嬌を滲ませて言う店主に、稲塚は礼を言ってからコースターをポケットに仕舞い、会計を済ませた。昨日が定休日だったらしいが、再訪の機会があるかは未定だ。それに開店は「なるべく」らしい。
店を出て、来た道を戻る。ゆおくり荘に着いた頃には本格的に雨風が強くなっていた。風も吹き始め、木々が揺れている。
海も荒れていることだろう。
*
ドアをノックする音で目が覚めた。
部屋に戻って、座布団を枕がわりに横たわったところまでは明確に記憶していたが、どうやらそのまま寝入ってしまったらしい。稲塚はぼんやりとした頭のまま体を起こし、腕時計に視線を落とす。時刻はもう夕方近い。
「突然すみません。少しだけ、よろしいでしょうか」
聞き覚えのない女性の声だった。何事かと思いながら、稲塚は起きて部屋のドアを開ける。
すると廊下には、ゆおくり荘の主人と、四十代くらいに見える女性の姿。
「この島で診療所を開いている、大月麻美といいます。父の長沼博からあなたのことを聞いて来ました」
女性のほうが一息に言った。長沼博。稲塚の学生時代の恩師で、本当は今回の旅行で訪ねるはずだった相手。
「刑事さんだと父から伺いました。それも、ファックスを使った事件の担当部署の刑事さんだと」
稲塚は二人の真剣な表情を見て、不安を感じた。見知らぬ土地で警官が求められる事態。こちらは休暇中なのだが。
「はい、確かにそうですが」と稲塚は答え「何かあったのですか?」と一応尋ねる。
それに対しては、宿の主人が口を開いた。
「実は、この先にある別の民宿でお客様が急に亡くなって、こちらの麻美先生に来ていただいたのですが、そうしたらお部屋でその……ファックスみたいなものが見つかって」
緊張が走る。
(続く)