天秤
フェリーのアナウンスが流れたとき、ぼくは半ば夢の中にいた。セノーテでダイビングをしていた。水に沈んだ鍾乳洞。淡水と海水の境目。冷たい水と、斜めに差す光のカーテン。水中に広がった黒髪。翻るドルフィンの尾。ウェットスーツとタンクを脱ぎ捨てた解放感。特別なぼくと、年月を経て作られた白骨の山。
田辺聖子の『小倉百人一首』に指を挟んだまま眠っていたようだ。栞を挟んで本を閉じた。オレンジや水色のプラスチック椅子が並んだデッキにはぼくしかいない。潮風を浴びながら気分が浮き立つのを感じた。海はいつでもぼくを元気にしてくれる。光る水面を見ていると、なんでもできそうな気分になる。もっと昔の時代に生まれていたら、間違いなくぼくは地図上の空白を埋めるための航海に参加していただろう。そうして、北西航路で人魚と出会っていたに違いない。
波間の先に青金石島が見えてきた。白い砂浜の向こうに目をこらすと、薄暗くなっている木陰で無数の星が光っている。船着き場近くの路上にはアクセサリー売りが所狭しと並んでいるので、それらが日差しに光って見えるのだ。ピアスや指輪、ペンダントの瞬きを見ると、セノーテに来たのだなと感じられる。貝楼諸島の南東に位置するこの島は、セノーテ島とも呼ばれている。地図には記されてない呼び名だ。ガイドブックには昔から青金石が採れたことや、近年のパワーストーンブームで注目が集まりつつあることなどが書いてあるだけだ。地元の人が使うセノーテという呼び名を教えてくれたのはミミだった。歓迎会の二次会で、彼女はぼくの隣に座っていた。ミミはすごくほっそりしていた。手足が長く、足の速い草食動物みたいで、うかつに近づくと逃げてしまいそうだった。
どんな話の流れだったかは覚えてない。そのときミミは紫陽花の色についてぼくに質問した。
「この島の紫陽花はほとんどが青い。でも北東の一角だけは赤いの。どうしてだと思う?」
「昔読んだミステリに、土壌が酸性だと青くなって、アルカリ性だと赤くなると書いてあったんだ。だから、たぶん北東だけアルカリなのかな」
「正解」彼女はスペアリブをほおばりながら答えた。「北東の一角は石灰岩でできていて、そこにはセノーテと呼ばれる泉があるの」
陥没した穴に地下水が溜まった天然の泉をセノーテという。有名なのはユカタン半島のもので、泉の下層には大規模な鍾乳洞が水没している。島のセノーテにも鍾乳洞があるという。どうして観光資源として利用しないのか聞くと、土地の所有者が偏屈なのだと答えた。自由に立ち入れるし、潜ってもいいが、商用目的で他人に話してはならないらしい。
「それにね」ミミは指先の脂を舐め、声を潜めて続けた。「みんな言いたくない理由があるの」
理由を聞いても彼女は首を振るだけで、答えてくれなかった。
ぼくはしばらくぶりに島の細い道路を歩きながら、そのときのミミがまったく酔ってなかったのを思い出していた。
仕事を辞めてからなので、来島するのは三年ぶりだ。通勤していた道にほとんど変化はなかったが、どころどころにぼこっと見慣れない建物があって、記憶を侵食してくる。タコ焼きと鯛焼きを売っていた狭いスペースの店舗が、自動車三台しか停められない駐車場になっている。何に使っているのか判然としなかった木製の倉庫が高いマンションに変わり、駐車場だった場所に真新しいブティックができていた。思い出せるのはまだましで、以前には何が建っていたのかわからないケースが多かった。開発業者に記憶を虫食いにされながら足を進め、十五分ほどかけて青いビルに到着した。島では一番高い建物だ。壁面は、金が散りばめられた群青色の美しいタイルにおおわれている。ぼくが勤めていたのは、貝楼諸島全域に配布されるフリーペーパーを発行する会社だ。ビルには他に図書館や公証役場などが入っている。中央の自動ドアをくぐりエレベーターで三階に上った。降りると真裏に回りこむ。オフィスのドアは開いていて、入ってすぐのカウンターにはフリーペーパーが並んでいる。一面は人魚の目撃情報だった。ピントが外れている写真が大きく掲載されている。こんにちはと挨拶すると、部屋にいた人の視線がいっぺんに集中した。営業アシスタントの女性が席を立つと駆け寄ってきた。母親ほどの妙齢の女性は、今何をしているの、ここを出てどこに住んでるの、今日はどうしたのと早口で聞いてくる。
「今はライターをしてて、隣の島に住んでます。メールで部長が今日ここに来るようにとおっしゃったんです。部長はどこですか」
女性が営業に出ている部長に連絡をとってくれている間、オフィスを見渡した。部屋は営業部の机がいくつか集まり島となっていて、その隣の島が編集部だった。ミミは以前と同じ編集部の席にいた。IT音痴の部長はぼくにメールを送った覚えがなく、今はずいぶん遠い島にいるのだという。そうなんですか。ぼくは返事をしながら、ついミミを見てしまう。すると女性アシスタントが「彼女、今度結婚するのよ」と教えてくれた。ミミは後輩らしき背の高い男性に何かを指示していた。女性アシスタントが言った。「ミミちゃんと話さなくていいの?」
その声が聞こえたのか、ミミがぼくを見た。たちまち身体中の組織が甘美な感覚に満たされそうになる。その気持ちを胡麻化そうとして、ぼくは「おめでとうございます」と大声で言った。ミミは少しだけ目を見張り、やわらかい微笑を浮かべると、「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。弔問客に頭を下げる喪主のようなきちんとした礼で、話はそれで終わりだった。しばらくぼくは女性アシスタントの近況を聞き、部長が帰ってきたときにまたよりますと挨拶してからオフィスを出た。来た道を引き返し、エレベーターを待っているとミミがやってきた。エレベーターの前にいるのは、ぼくとミミだけだ。二人きりだった。また身体が反応しそうになる。こんな場所でそうなるわけにはいかないので、ズボンのポケットに手を突っこんで太ももをつねる。エレベーターが到着した。ドアが開き、二階でございますというアナウンスが響き、静かにドアが閉じる。どう話をしたらいいのか考えていると、先にミミが口を開いた。
「連絡もしなくてごめん」
「結婚おめでとう」
「ありがとう。知らせなきゃとは思ってたんだけど」
「気にしないで。本当に良かったなと思うよ」
「もっと前に知らせておけばよかった」
「聞いてもよければ、お相手ってどんな人」
「そうだね」ミミは下唇を軽く噛み、それから言った。「いい人だよ」
「詳しく聞きたいような気もするけど、たぶん聞かないほうがいいんだろうな。……それで、えーと、その人は知ってるの、ぼくたちが」どう説明したらいいのかわからず彼女を見つめる。「だからミミが、ぼくに、その」
「ううん」ミミは首を振った「それは誰にも言ってないし、これからも誰にも言わない。だから」と彼女は声を潜めた。「あなたも秘密にしてね」
もちろんだとぼくは請け負った。絶対に誰にも言わない。今までも誰にも一言も言ってないことを話すと、ミミはそっか、と言って目をそらし、前髪を耳にかけた。それからぼくを見ないで「今日は泊まるんでしょう」と言った。泊まるよと返事をすると、彼女は足元を見つめたまま低く言った。
「だったらあとでセノーテに来て」
「あとでって、いつ?」
「会社が終わったら行く。だから、それくらいに。ね、絶対に一人で来てね」
そうつぶやくと彼女は背を向けた。角に消えるのを見送ってから、エレベーターで一階に降りて、船着き場近くのホテルに部屋をとった。シャワーをあびてベッドの上で横たわった。
ミミとの交際を会社には秘密にして欲しいと言ったのはぼくだった。あんな会社にいつまでもしがみつくつもりはなかった。しかし、社内で恋愛していると知られてしまえば、すぐに結婚話が出てくる。ミミには申し訳なかったけど、縛られるのはごめんだった。未来のキャリアとミミを天秤にかけると、どちらが重いのかは明白だったから。口止めしたことで何度か喧嘩したけど、いつもミミはぼくを許してくれた。おまけに彼女はあれをして、ぼくを特別にしてくれた。感謝してもしきれないのに、それでもぼくは逃げ出した。だから、てっきり彼女は誰かに――例えば結婚相手などに――すべてを打ち明けているのだろうとと思っていた。
今、彼女はぼくをどう思っているんだろう。どうしてセノーテに来て、などと言ったのだろう。考えながら目を閉じていると、いつの間にか眠ってしまった。
セノーテに潜ったときの夢を見た。
ミミがぼくにセノーテとは生贄の泉なのだと教えてくれる。島の人々は昔から、ここに生贄を捨ててきた。日照り続きの飢饉を乗り越えるため。嵐を鎮めるため。時には、邪魔な男や女をこっそり捨てることもあった。泉に沈んでいる骨はどれもきれいだった。服の切れ端も、肉のひとかけらも残ってない。あまりにきれいなので、どうしてなのか質問すると、ミミはふふふと笑った。それから「あなたは未来のために私を生贄にしたのね」と言った。
それで目が覚めた。ひどく汗をかいていた。まだミミの言葉が頭の中で木霊している。あれは単なる夢だし、現実にそう言われたことなどないのに、いつまでも声が消えなかった。確かにそうかもしれないと思った。ぼくはミミを犠牲にしたのかもしれない。でも、誰のことも犠牲にしない人なんているだろうか。誰もが皆、誰かを犠牲にしているのではないのか。
そこまで考え、部屋が薄暗いのに気づいた。すっかり日が暮れている。ようやく頭が働き始めて時計を見た。八時を過ぎている。慌てて服を着替え、セノーテに向かった。もうとっくに彼女がついててもおかしくなかった。
手掘りの短い隧道を抜けると、それまでは青かった紫陽花が赤に変わった。石灰岩の土地にはまったく川がなく、降った雨はすべて地下水脈となり、浜辺や海、セノーテに流れる。クレーターのように盛り上がった泉の岸辺にミミの姿はなかった。ゆっくりと一周する。やはり彼女はいない。八時半を過ぎていた。待ちくたびれて帰ったのかもしれない。ぼくはぺらぺらのサコッシュから、『小倉百人一首』を取り出した。セノーテの入り口近くに街灯がともっている。そちらに向かい、プラスチックのベンチに座って好きな歌を拾い読みした。藤原敦忠。壬生忠見。平兼盛。小声で口にしながらミミのことを考えた。彼女がぼくにしてくれたことを思った。ミミの血の味が記憶の底から蘇り、体中の組織が変化していくあの甘美な感覚がちろちろとぼくの全身を舐めていく。ミミの好きな「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」の解説を読み進めていると、声がした。ミミの声だ。周囲を見回したがどこにも姿はない。気のせいだろうか。本を閉じて耳を澄ます。やはり、ぼくを呼ぶ声がする。声はセノーテから聞こえてくる。
ミミはぼくに同族以外には見せたことのない姿を晒してくれた。もちろん、この島に住んでいる人は誰も知らない。彼女が人魚であることも、彼女がセノーテから来たことも。
ぼくは服を脱ぎ捨てて、セノーテの淵に立った。声はどうやら水中から聞こえてくるようだ。水面に向かって飛び込み、声を頼りに泳いでいく。すでに彼女を待っている間に、ぼくの体内組織は人魚のそれに変わっていて、冷たい水も心地よかった。ミミのように二本足がくっついてイルカの尾に変化はしない。そうなるのは血の濃い、北西航路直系の人魚だけだ。ぼくのように人の歴史が長かった傍系は足先がぬめぬめしたヒレに変化するだけだ。そうやって変化できるのも、ミミが血を分け与えてくれたからだ。
湖に沈んだたくさんの骨に囲まれ、ミミは一人だった。彼女の結婚相手はこれを知っているのだろうか。彼女はぼくに何の用があったんだろう。
「実はあたし、妊娠してるんだ」
ぼくが近づくとミミは言った。とても熱っぽい目をしていた。
「そうなんだ。何か月?」
「今三か月。すごくね、おなかがすいちゃうの」
「つわりとかは大丈夫なの」
「うん。今は何でも食べたくなっちゃう」
ミミはぼくをじっと見つめていた。ふと、部長のパソコンにはパスワードが誰でも見えるところに貼ってあるのを思い出した。