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BFC5決勝作品の感想 その1

鳴骸さんの「ヴィゴ」の感想を書きます。ちなみにぼくはヴィゴ・モーテンセンを知りません。検索したところ、出演作も見ていませんでした。顔は見たことあるような、ないような、という感じです。
ところで、鳴骸さんの「ヴィゴ」は読みましたか? ネタバレを含めて書きますので、先に読んでおくのをおすすめします。

読みましたね。
ではネタバレで感想を書きます。
ぼくはこの作品を、短詩の要素を生かした小説だとして読みました。
ぼくのように「ヴィゴ・モーテンセン」を知らない人間には、その音が通常の文章では出てこないような異なった響きを持った面白い文章であるように思えたのです。
そういう文章って、音読したくなる。
この音読したくなるという欲望を駆り立てるのが、短詩の良さではないかと思っています。

BFCで、特にジャッジに求められる素養として「小説だけでなく短詩にも明るい」というものがあります。
どちらにも詳しければ、優劣が決められるという理路があるように感じます。
しかし、それは本当なのかというのが長年の疑問なんですよ。
もちろんですね、どちらにも詳しい人はすごいなと思うんです。
ただ、どちらにも詳しい人は、こういう判定を下すわけです。判定を下すパターンは次の四つ。
「この短詩の完成度は低く、この小説の完成度は高いので、小説の勝ち」
「この短詩の完成度は高く、この小説の完成度は低いので、短詩の勝ち」
「この短詩の完成度は低く、この小説の完成度は低いので、共に敗退」
「この短詩の完成度は高く、この小説の完成度は高いので、共に勝ち抜け」
共に敗退の場合はともかく、共に勝ち抜けの場合はそれなりにさらに二つの作品を比べて、何らかの理由によって(興奮した、異化効果が素晴らしかった、などなど)どちらかが勝っていると判断する。
ところで完成度の低い作品は弱くて、完成度の高い作品は勝っていることになっていますが、それは本当なのかなというのが引っかかっています。
異種格闘技戦のような新しい価値を求めるイベントで、それぞれの表現形式における完成度を競うというのは、その価値観の根底にオールドファッションなスタイルが尊ばれているように思えるということもあります。
あと、単純に、本当に完成度の低い短詩は、完成度の高い小説より弱いの? という疑問もあるんです。
比喩に過ぎませんが、世界ランカーのボクサーであれば、ランキングが低くても、柔道の金メダリストに勝つのではないか、と思ったりするわけですよ。
「そんなのルールによって違う」という反論は、もちろんそうだと思います。
であれば、「完成度を競う」というルールもまた、疑ってもいいわけで。
完成度の低い短詩であっても「小説や詩に興味のない人が、どちらの作品を音読したくなるか?」というルールで優劣を決めるという方法があったっていいのではと思うわけです。

前置きが長くなりましたが、「ヴィゴ」にはぼくのようにそれほど小説にくわしいわけでも、それほど短詩にくわしいわけでもない読者(しつこいようですが、ぼくです)に「これは声に出して読みたくなるな」と思わせるようなわくわくした興奮を与えてくれました。
不思議な響きの音、オノマトペではなく、単なる人名であるのに、異化効果によって詩的な響きを帯びてくる言葉がリフレインする。
そこに、この作品のキモはあるとぼくは読みました。
しかも詩的な作品として成立しているのに、小説としての理屈も手放してはいない。
邪魔にならないように、さりげなく理が支えている。
日本語しか話せないので、私はヴィゴ・モーテンセンと会話が続かない。コミュニケーションできないために、私の思いは相手の名前から生じるさまざまな違和感を覚える自分自身にしか向かない。深まっていくのは自分自身の思考のみであり、いつまでたっても、ヴィゴ・モーテンセンはヴィゴ・モーテンセンという名前を持った人物のままだ。会話さえできれば、もしかしたら友人になって短縮形である「ヴィゴ」になったかもしれないし、「こいつ」になったかもしれないし、あるいは「変人」とか「意外としっかりしたやつ」とか、その他もろもろに変化するにつれ、呼び名も変わったかもしれない。
でもそうはならなかったので、ヴィゴ・モーテンセンは己の内側で名を呼ぶときも、フルネームのままだ。
フルネームを連呼するのに、不自然さは見られない。
詩的な要素をこれほどはっきりと示しているのに、小説として読めるのはそのためだろう。
注目すべきは警察を呼ぶくだりで、この作品にはそうした伏線がまったく示されていない。もしも示されていたら、ヴィゴ・モーテンセンの繰り返しという面白さは、少し減じていたかもしれない。警察という要素が加わると、サスペンスが生じてしまい、名前のリフレインだけで通すのは少し強引に感じてしまうからだ。サスペンスと言葉遊びは相性が悪い。
ところが、後半に警察が登場するという伏線はないため、そういう不都合は起こらない。
普通だったらずるいと思うところです。小説としてそれは欠点だと感じてしまうかもしれない。
でも、この作品を読んでいる読者(おれ)は、一回戦の作品をすでに読んでいる。
あの作品でさんざん警察を呼んだという文章を読んでいるので、ついつい納得してしまうんですね。
この作品でも通報してたんかい、と心の中でツッコミを入れつつ、そうした離れ業を受け入れてしまう。
受け入れてしまわざるを得ないでしょ、こんなうまいことやられたら。
ということで、ぼくにとっての「ヴィゴ」は、小説としての構えを崩さずに、短詩的な要素を導入している、声に出して読みたくなるおかしさに満ちた、驚きの作品でした。

では、蜂本さんの「お会いしましょう」は声に出して読みたくなる作品か、そうではないのか。
明日、そのあたりについて感想を書こうと思っています。

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